『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

16巻71話 バッキンガムの望みについて

(薔薇王の葬列アニメ22話対応)

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)

 

『リチャード3世』(以下、RⅢ)のストーリー展開に沿いながら、またもや内実を逆転させてRⅢバッキンガムを荘厳・浄化するかのようです。これはもう、バッキンガム、最終的には裏切りでも謀反でもないですよね。同時に、バッキンガムの心情としてはこういう解釈の演出もできるかもぐらいの絶妙なラインが攻められている気がします。

 

シビアな展開であり、またプロット的には第1部と少しずつ重ねられながら、その描き方やニュアンスは第1部とやや異なり、第2部の後半ではそれぞれの人生が肯定されているように思います。バッキンガムの処刑が、彼が生きようとした選択として描かれているのも印象的です。

 

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バッキンガムの捕縛について

RⅢでは、雨でバッキンガムの軍が散り散りになり本人も行方不明になったと報告を受けたリチャードが「誰か気のきいたやつが、あの謀叛人を捕らえた者に報奨金を出すと布告しただろうな」と包囲網を張り、その後、ケイツビーが、バッキンガムが捕らえられたことを吉報としてリチャードに伝えています。

 

『薔薇』では、リッチモンドの援軍が来ないとなると(←ここはRⅢ通り)バッキンガムを売る者が出るかもしれないと言われても(70話)、バッキンガムは「それならそれでもかまわんさ……」と言い、実際はむしろ自分からそう仕向けただろうと思えます(「最後になすべきことがある」)。

 

バッキンガムが捕縛されたことに『薔薇』のリチャードとケイツビーは愕然とし、リチャードはバッキンガムを売り渡した「その●●“裏切り者”の首を刎ねろ」と思わず言いますが、周囲の臣下達は「“裏切り者”のバッキンガムには当然の処置」とその意図と反対に受け取り、RⅢに沿う形になっています。これまで謀反人を処刑してきて、バッキンガムだけを免れさせることはできない立場にリチャードは置かれました。

 

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Image by pictures101 from Pixabay

 

荊棘を切り裂くバッキンガムについて

牢の中で、バッキンガムは、ケイツビーに「お前はこれからもリチャードを守り続けろ、俺の役目は違う、それだけだ」と、はじめはバッキンガムらしくないほど恬淡とした風情で語ります。バッキンガムは、リチャードと「違う光を見ていた」ことに気づき、それでも自分が「生き続ける限り、彼のすべてを、望まずにいられない」、「俺はきっとリチャードを殺す」、自分自身がリチャードの荊棘になってしまうからこそ自分を排除すると言うのです。「俺の役目は、リチャードの行く手を阻む荊棘を切り裂いてやることだ、それがたとえ……、“自分自身”だとしても」。それが「最後になすべきこと」という訳ですね。

 

バッキンガムはRⅢのリチャードでもあるだろうとずっと書いておきながら、13巻以降で愛を求めた展開では、『ヴェニスの商人』や『恋の骨折り損』とだけ関連づけて考えてきた気がします。ですが、記事でも何度も引用した『ヘンリー6世』の荊棘を切り裂く箇所のリチャードの独白を遡れば、愛の代わりに王冠を求める台詞が出てきます。これまで愛に関する箇所はリチャードにだけ重ねてきましたが、改めて考えると、愛を否定しそれに目を瞑ってひたすら王冠を目指したバッキンガムとも重なるかもしれません。以下の引用部の最初の言葉は、(元の文脈とは全く異なるものの)回想部の結婚式場面でのバッキンガムになんとなく被るようにも思えてしまいました。また、今話との関係では、愛と自分自身が荊棘になってしまったバッキンガムが、苦しんだ末に別の形で愛を全うする活路を開いたようにも思えます。

 

女の膝を天国と思い、華やかな衣装でこの身を飾り、甘いことばと顔つきでかわいいご婦人がたを魅惑するか?(中略)おれが、女に愛されるような男と言えるか?(中略)とんだ料簡ちがいだ!とすれば、この世がおれに与えてくれる喜びは、おれよりなにもかもまさっている連中にたいして命令し、叱りつけ、いばってみせる以外にない、だから王冠を夢見ることがおれの天国なんだ。(中略)

茨の森に迷いこんだ男が、茨を引き裂こうとして茨に引き裂かれ、道を見つけようとして道から遠ざかり、どう行けば広いところへ出られるかわからぬままどうにか行こうと死に物狂いにもがくようにイギリスの王冠をつかもうと苦しみもがいている、もうそのような苦しみとはおさらばしたいいざとなれば血まみれの斧をふるって道を切り開くまでだ

(『ヘンリー6世』)

 

また、『ヴェニスの商人』と『恋の骨折り損』については、14巻以降、それがマイナスに転化したことや“Love’s Labours Lost”のタイトルに掛けた不吉予想だけ書いてきました。バッキンガムは、今話で、地位や名ばかりでなく本当に「所有するすべてを投げう」って「真実を選びあてた」とも言えそうです。ただ単にリチャード自身を欲するのでも、自分のためにすべてを投げうつようリチャードに求めるのでもなく、リチャードのためにすべてを投げうとうとしたように思えます。『恋の骨折り損』では、相手の心を得るために欺くような策を弄したビローンが、最終部で「君の愛を得るために何をしたらいいか言ってくれ」と告げています。今話でそういう話が出てくる訳ではありませんが、マイナス転化で終わらなかったという印象を持ちました。

 

一方、バッキンガムの選択がリチャードを苦しめることになるのはケイツビーが懸念する通りで、ケイツビーが「あなたの考え方に、賛同できる時は永遠に来ないだろう……」と言うのも本当にわかります。でも、単にバッキンガムの反乱のストーリーの必要以上に、バッキンガムが取りうる道、彼が考える「なすべきこと」はこうなってしまうんだろう、という納得感もとてもあります。

 

バッキンガムの祈りについて

最後に望むものをケイツビーに問われたバッキンガムは、長く勾留されて醜態を晒したくないから早く処刑して欲しいことと、RⅢの通り、リチャードに会うことを望みました。それを伝えられたリチャードは、「会えば……決心が鈍る……」と苦しみ、翌日の処刑を告げられたバッキンガムは「リチャードは……、会ってはくれないのか……」と言いました。

 

少し長めですが、RⅢのこの場面のバッキンガムの台詞を引きます。

 

リチャード王は、会ってはくださらぬのか。

(中略)

君、今日は確か万霊節だったな?

(中略)

では、死せる魂に祈りを捧げるこの万霊節の日こそ、この肉体の破滅する日ということか。(中略)まさにこの日、万霊節のこの日にこそ、慄くわが魂は、重ねに重ねた悪行のつけを返済せねばならぬのだ。神をもてあそんだこの私のまやかしの祈りをすべてをみそなわす神はこの身に返し、戯れに願ったことを本気で実現なさるのだ。こうして神は、悪しき者をしてその剣先を己の胸元に突き立てさせる。こうしてマーガレットの呪いが、重くこの身にのしかかる。あれは言った、「やつがおまえの心を悲しみで引き裂く時、思い出せ、マーガレットは予言者であったと」。さあ連れて行け、恥辱の断頭台へ。悪には悪、罪には罪が当然の報いだ

 

RⅢではバッキンガムはリチャードと会えないままになります。また、ここを素直に読めば、死者に祈りを捧げる日に、これまで偽りの祈りや誓いで相手を騙し謀殺してきた報いを受ける、因果応報を嘆き後悔する台詞に思えます。「マーガレットの呪いが、重くこの身にのしかかる」の箇所などが特にそう思わせます。

 

ですが、この71話では、バッキンガムは、自分のしたことを悔いてもいなければ、神や祈りをなお信じてはいないと言います。(神を信じないバッキンガムという性格設定もおそらくこの台詞からだったのかと思いました。)そしてRⅢのこの元の台詞は、リチャードのために自身が積極的に全ての罪を被ることを望み、信じないはずの神にそれを祈る台詞に転換されます。「俺は神も運命(さだめ)も信じたことはない…、だがもし…、罪には罪の報いがあるなら…」〈もし存在するなら神よ、どうか、リチャードを罰するなーー、悪には悪を、罪には罪の裁きを下せ〉。

 

RⅢと全く違うニュアンスにされたようにも思えますし、元の台詞を、後悔でなく、「心を悲しみで引き裂」かれてもなおリチャードと共に犯した自分の罪を肯定し、報復を受け入れ、最後にリチャードに会おうとするものと取れば、RⅢに極めて近いとも言えそうです。

 

リチャードの後悔について

それに対して、今話でむしろ苦しんで後悔しているのはリチャードの方とも思えます。リチャードは、15巻では王であり続けることとバッキンガムの制圧を選びましたが、70話では王冠もバッキンガムも失わないためのできうる限りの道を選択したはずなので、却ってこの結果を受け入れられなかった気もします。

 

堕胎のために呼んだジェーンに、「俺はただ……、王で……いたかっただけなんだ……」と苦悩を語ります。それに対してジェーンが言ったのが「後悔のない人生なんてない」でした。また今回はジェーンが「何を望むにしても、選ぶのはあなた」と言っています。

 

15巻68話で、リチャードが、これまでと違って、大事なものを失わないようなよりよい選択をしようとしていること、それがハムレットと関連づけて肯定的に描かれている気がすることを書きました。今回、ジェーンというか、菅野先生は更にそれを超えてきた、と思いました。最善と思った選択でも後悔は出てくるし、(そうは言ってはいないものの)最善の選択でなくてもよくて、後悔自体まで人生として肯定しています。この流れで語られると、これを言うジェーンがリチャードを抱きしめているように、包容力のある言葉だと思います。「あなたの身体はあなたのものよ」という台詞とともに、読者側の現実にも響く言葉にもされている気がします。

 

15巻感想68話リチャードの迷いと選択について

15巻感想69話森で待つバッキンガムについて

 

このジェーンの台詞、ひょっとしたらRⅢのリチャードの台詞「してしまったことは今更どうしようもない。人は時に愚かなことをするものだ。そしてあとになってぐずぐず後悔することになる。」の変換かもしれないですが、もしそうなら、こちらの方は全く違う意味になっていますね。

 

バッキンガムの望みについて

71話では、バッキンガムのこの選択と処刑が、むしろ「生きること」として描かれているのも印象的です。祈りを捧げるバッキンガムに「お時間です」の声が掛かり、それが結婚式を迎える少年時代のバッキンガムの回想と繋がります。少年バッキンガムは〈この結婚で俺の人生は終わる、意志を奪われ、飼い犬のように生きるなら、“死”と同じだーー〉と思い、その時に、剣を振るうリチャードを目にします。よく見ようと足を滑らせて落ちたバッキンガムをリチャードは受け止めて「死ぬつもりか馬鹿!!」と怒り、「もっと頭を使え」「弱くても死なんようにな…」と言い残して去ります。

 

バッキンガムはそのように「頭を使」って生きてきて、彼のここでの選択が、その延長線上にあるもの(同時にリチャードの意志を奪って死なせないためのもの)だと示すエピソードになっています。処刑に向かう途上でも、バッキンガムは、〈心残りはない、この世に生まれ、あんたに出会えた〉と思っています。バッキンガムの方は、自分自身でその人生を肯定していると言えるかもしれません。

 

そして最後の望みであったリチャードに会うことも『薔薇』では叶えられています。リチャードにとっては辛いと同時に、おそらくよりよい、それでも後悔を伴う選択なのでしょう。更に、リチャードは「地獄で先に待っていろ、必ず、また会える」と言い、それが来世を「誓約」するものとしても描かれています。

 

(※RⅢは河合祥一郎訳・角川文庫版、『ヴェニスの商人』は小田島雄志訳・白水社版、『恋の骨折り損』は松岡和子訳・ちくま文庫版から引用しています。)

 

万霊節の日(11月2日)に菅野先生がツイッターでお勧めしてくれていたのがシュトラウスの「万霊節」だったので、今回はこちらをリンクします。もしかしたら、この曲のイメージがあるのかもしれませんね。歌詞を動画の下に書いています。


www.youtube.com

 

テーブルに木犀花をおき、名残りの赤い菊を持ってきて。こうしてまた恋を語り合おう。昔5月にしたように。

手を出して、ぼくにそっと握らせて。人が見たってかまわない。君の甘い眼差しを一つください。昔5月にしたように。

今日はどの墓も花でいっぱい。だって今日だけは年に一度、死者が解放される日なんだから。もう一度胸にしっかり君を抱きしめさせて、昔5月にしたように。

吉田秀和『音楽の光と』より)