(薔薇王の葬列アニメ24話対応)
この76話では、75話以上に『薔薇王』の物語的な円環が作られ、最終話に向けて菅野先生が主題をストレートに提示した感がありました。次の77話以上に『薔薇王』全体では、クライマックスと言えると思います。メインの箇所については、台詞を抜き書きしただけか!みたいになってしまいました……。手抜きをしたつもりはなくて、そのくらい台詞が真っ直ぐでしかも含蓄があって、いつも以上に余分なことを書いている気持ちになります。
冒頭、ティレルが、ダウトンとぶつかりがしらに、名前を返上すると書いた手紙を帽子に挟んで消えます。後半で彼が語っているように、名前も、過去も、人との関わりも全て捨てたという意味なのでしょうが、フォレストとダウトンが「次のジェイムズ・ティレルを探すか」とも言っていて、後のヘンリー7世治世に、エドワード5世暗殺を自白したジェイムズ・ティレルと彼は別人という暗示かも(←と最終話を読む前に書いていたらそうでしたが、この先は最終話分で書きます)。
ヘンリーの夢について
次いで、王の重責に苦しむヘンリーについての夢/回想シーンになり、1巻でのリチャードとヘンリーの出会いがヘンリー側の視点から描かれています。〈きっと僕を受け入れてくれる……、だって君は何も知らない……、そして孤独だ……〉。第1部ではほとんど描かれなかったヘンリーの裏面というか「闇」というか、手を引いている画とかも、なんだか孤独につけ込む年上の男のずるさを感じて……、……いいですね!(←ごめんなさい、爛れた大人で)
慌てて言うと、第1部で、信仰と性的トラウマと自分の欲望に苦しんでいたヘンリーも真実だと思っているんです。ただ、無意識的にはこういう面もあり、客観的(??)にはこうも言えるということだと思います。第1部最後の場面になり、泣きながら斬りつけるリチャードに、血塗れで「リチャード…、ごめん……」と言って、目覚めると今のヘンリー(正確にはヘンリーの名もティレルの名も捨てた彼)になっており、それが夢であったことがわかります。そしてそれを自分の記憶でなくきっと〈僕によく似た“ヘンリー”の話〉としています。
この第1部最後の30話で、ヘンリーはリチャードの「闇」・ダークレディを拒絶した訳で、セシリーが夫ヨーク公が自分の「闇」まで愛してくれなかったと言った話に繋がるとともに、ヘンリーの苦悩がこの後の王の孤独の話に繋がるという、蝶番的なエピソードになっているのでしょう。7巻30話の感想記事でも書いたように、ヘンリーは自分の情欲でリチャードを汚すのを恐れた一方、その情欲を悪魔の誘惑のせいにしました。「君は何も知らない」には、ヘンリーが王であると知らないことは勿論、性的に無垢という含意もありそうに思えます。ですが、自分の中にある闇も相手の闇も認めず、自分を救う清らかな天使だけを相手に求めること自体、もう一つの「闇」でもありますよね。訳わからないことを言っていたらすみませんが、そのもう一つの闇をずるさのように描いてもらえてよかったなと思いました。“光”が“荊棘”でもあると語る今話のヘンリーが、リチャードを欲望したことも、それを転嫁して逃避したこともわかっている必要があるでしょう。
一方で、出会った時のリチャードが〈何も知らな〉ったのもその通りとも言えます。リチャードは「王冠の光の中には楽園があるんだ!」と言い、王の、またヘンリーの苦悩も知らないままでした。
『リチャード3世』(以下、RⅢ)有名な夢のシーンは次の77話で出てくるものの、ここで部分的に使われてもいるんでしょうか。リチャード3世とヘンリー6世なので当然ですが、RⅢでは、夢を見るのがリチャード、ヘンリーはその夢の中で自分を殺したリチャードを呪います。
森での邂逅について
リチャードの方は、1巻でヘンリーが「立派な天蓋の下では恐ろしい夢しか見られない」と言い、戦いを倦んでいたのと同様に、〈残ったものは、王冠だけだ〉と、王冠の代償に全てを失い、父との絆も断たれたように感じ、戦地に向かいながらも〈この戦いに何の意味があるんだ〉という思いに捕らえられていました(本当に“Hollow Crown”っていう感じ)。ケイツビーに言った、「すべてなくなったら」「何の為に生きるんだ……」というのは、リチャード自身の悲痛な問いにもなっていますよね。
そんなリチャードを白いのが促して外に連れ出し、まさにリチャードとヘンリーが森で出会った1巻2話3話のように、2人は再開します。その時とは立場を逆にして、〈誰もいないあの天蓋の下よりも〉枯れ葉の暖かさを感じて横たわるリチャードのところに、「そうだろう? ここは寝心地がいいんだ……」と、ヘンリーが現れました。リチャードには、当時のヘンリーと今のティレルの顔が時々に入れ替わって見えるように描かれてもいます。
『薔薇王』スペイン語翻訳者のAna Caroさんが、1巻ではリチャードとヘンリーが陰陽図(太極図)のように描かれていると指摘されています。76話のこの場面でも陰陽図の構図になっていますね。
Deshojando la rosa 4 – El mito del andrógino – Apartamentos Hanaoka
1巻で自分がそのまま死んでもよいと言ったヘンリーは、今話では「逃げたいなら僕が連れていってあげる、“救い”が欲しいと、君がもし望むなら」と手を差し出します。リチャードが望めばおそらく殺してくれたようにも思えます。“救い”が殺害の意味だろうことはこれまでのティレルと同様ですが、自分が逃げたくてリチャードに救いを求めた第1部とは逆であり、“リチャードの望むこと”を尋ねています。それに加えて、逃げたとしても「名前も、過去も、仲間も……何もない」ものになることを、自身のことに託けて仄かしているようにも思えます。
それに次ぐ「君にはもう、何もないのだから」は過去のヘンリーの絵になっています。この言葉がリチャードには過去と同様の逃避の誘いに聞こえたのでしょう、「いつもすべてから逃れようと」するとヘンリーを責めようとして、リチャードは、ヘンリーが王の務めを果たそうとして最後に戦場に戻ったこと、そしてヘンリーの「王冠の中で」の孤独に思い至ります。
6巻の時には、ヘンリーが王として振る舞おうとした時に、戦場でリチャードに遭遇し互いが誰かを知る展開が皮肉で悲劇的に思えました(それもすごく好きです)。今話では、そのヘンリーの行為が王の責務を果たそうとしたものと理解され、当時「何も知らな」かったリチャードに「王冠の重み」「孤独」が共感されることになっており、やはり昇華された感があります。
“光”と“荊棘”について
更に、今話のヘンリーは、逃避や楽園や死を求めていた自分の中がずっと空虚だったと言い、荊棘や闇も迎え入れようとしています(“光”という言葉ですが、闇も受け入れるということになるでしょう)。ここはもう、そのまま引用してしまいます。
僕が存在する為に、たったひとつでいい、“光”が欲しい、“光”は美しいだけの楽園じゃない…、“光”は同時に“荊棘”なんだ、苦しみ傷を負うと知ってもなお…求めずにはいられない………望むことが生きている意味だから
最終部で本当にストレートなメッセージが提示されたと思いました。また、それをヘンリーが語ったことにも、驚きとともに感慨がありました。「救い」を求めるより、「何の為」というより、「苦し」んでも「望むこと」それ自体を肯定する。第1部のヘンリーとリチャード、あるいは『ヘンリー6世』(以下、HⅥ)のそれぞれの独白に対する応答になっているような気もします。1巻で2人が出会い、HⅥのそれぞれの独白を対話にした展開で私は『薔薇王』に嵌まりましたが、王冠の代償に全てを失ったと思っているリチャードに、この台詞で、かつて王だったヘンリーと再び対峙させるこの展開!
リチャードは改めて、「血に塗れても、すべてを失くしても」止み難く求めたのが王になることで、「“血”でも“名”でもない」自分自身が王冠を望んだことに気づきます。〈それこそが、生きる(戦う)意味だ〉。そして王がいるべき場所として、戦場に戻ることを選びます。
今のリチャードに「僕の“光”になってくれないか」と言うヘンリーも、過去とは違って、救いではないリチャードを、“荊棘”の傷を負っても求めたいものと位置づけることができたのでしょう。15巻でティレル=ヘンリーは、バッキンガムに「それが貴方の、“愛”なの……?」と問いかけていましたが、今回のこれがヘンリーが見出した愛なのかもしれません。
1巻の時点では、2人は互いを知らないまま、異なる楽園を夢想し救いを求めていました。今話での2人は、多くを失いながら、互いを知って同じ地平で“荊棘”でもある“光”を取り戻そうとしていると言えそうです。リチャードは今本当にヘンリーと話がしたいと考えましたし、ヘンリーは改めて「僕と友達になってほしいんだ」と言い、それにリチャードは「友達になろう……」と答えます。
ヘンリーの光について:ソネット
ヘンリーが後悔を抱え、再びリチャードの元に来たことや空虚だった自分の“光”になってほしいと告げたこと、ここは75話とは違って推測に過ぎませんが、ソネット109番がイメージされました。そして78話にもつながるような気がするのです。これも元の詩より、今話と掛けるとぐっとくる類のものだろうと思います。
きみの胸のなかにいるわが魂と別れるのは、
私がこの自分と別れるくらいむりなことだ。
きみの胸がわが愛の住みかだ。たとえさまよい出ても、
旅にでかけた男のように私はまたもどってくる、
時間どおりに、時をへても心変わりもせずに。
つまり、私はわが罪を清める涙水をもって帰ってくる。
たとえ、あらゆる気質の人びとを悩ませる、
あらゆる弱点が私の生活を支配しようと、
無にひとしいもののために、きみの美徳を
そっくり捨てるほどひどく堕ちたとは思ってくれるな。
わが薔薇よ、きみがいなければ、私はこの広い世界を
無と呼ぶ。この世ではきみが私のすべてなのだ。(ソネット109)
再び生きることについて:『冬物語』……かも…
ティレルの登場時には、“『冬物語』のような幸せな結末には全くなりそうにありませんね”と書きまして、その頃は暗い方向に行くだけと考えていましたが、意外に今話で『冬物語』テイストになった……気がしました。何度か書いたように、第2部の終幕は悲劇的ではあるものの和解的です。『冬物語』全体は、ヘンリーの夢のエピソードとは逆の、清らかな天使的女性が愚かな男を救済する話とも言えるので違う気もする一方、全てをなくしたと思っていた王が失われたものを取り戻す話でもあるので、迷っています。長い年月の後に“話をしよう”となる箇所とか、彫像に生を取り戻すよう語る台詞が(文脈は違うのですが)、ヘンリーが光によって生きようとすることに重なるようにも思えるので、最後にその辺を少し書きます。
これまで何回か『冬物語』の筋をぼやかしながら書いてきて、もうなんとなくネタバレになっているかもしれません(し、今は書き替えたもののネタバレを書いていたこともあります)が、今回はクライマックスのネタバレになっています。無理矢理推測の箇所なので、『冬物語』ネタバレを避けたい方は無理をしないで下さい。画像を挟みます。
『冬物語』のリオンティーズ王は、自分の妻ハーマイオニを幽閉し、殺すかのように死なせてしまったと思っていましたが、ハーマイオニは、臣下のポーリーナに匿われて生きていました。長い年月が過ぎた後、ポーリーナは、ハーマイオニの彫像だと言って、像の前にリオンティーズ王を立たせた後、その像=実は本物のハーマイオニに起きるように言います。
石であることをおやめください。さ、こちらへ。皆様を驚かせるのです。あなたのお墓は私がふさぎましょう。さ、動いて、こちらへおいでください。無感覚は死にお譲りなさい、あなたのいのちであるかたが死の手からあなたをとりもどしてくださったのです。
76話との連想では、ハーマイオニ=ヘンリーとも言えますが、それ以上に“石であることをやめて生を取り戻して下さい”という台詞そのものが、ヘンリーの変化のように思えました。
ティレルとして生きてはいましたが、ヘンリーはあの「雨の夜」まで「無感覚」でいたとも言えそうで、バッキンガムと愛を交わすリチャードから「空虚の正体」を知ったと語っています。〈本当はずっと〉「僕も、人間(ひと)を愛したい」と気づいたのはその時です。今のヘンリーは「僕が存在する為に」「 “光”が欲しい」と言い、“荊棘”と“ひかり”としてのリチャード=「いのちであるかた」が、彼の生を取り戻したと言えるかもしれません。
そして、生きたハーマイオニを目の前にしたリオンティーズ王は、物語の最後の台詞でこう言います。
尋ねたり答えたりしよう、われわれが離ればなれになって以来、長い長い歳月の舞台で、それぞれがどのような役を演じてきたかを。