『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

17巻75話 リチャードの呪いについて

(薔薇王の葬列アニメ23話対応)

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)
 

アンの手紙について

75話は亡くなったアンがかつてくれた手紙から始まります。手紙の〈リチャード様を心に思い浮かべれば、私は夜明けの雲雀みたいに暗闇から舞い上がれるんです〉、ここは躊躇せず言える〜、ソネット29ですね。直接的にはここだけですが、29番全体が73話あたりからの話も思わせます。元々はこれまで通り高松雄一訳・岩波文庫版のものを載せていたのですが、こちらは元設定の年上男性の口調でやや雰囲気が違ってしまい、小田島雄志訳・文春文庫版に変えました。アンの手紙の雰囲気にはこちらの方が合いますね。多分原文もぐっと来ると思うので、原文も載せます。

 

運命の女神にも人々の目にも冷たくそむかれ、

私はひとり見捨てられたわが身を嘆き、

むなしい泣き声で聞く耳もたぬ天を悩まし、

わが身を眺めてはこのような身の上を呪う。

そして将来の希望に満ちた人のようになりたい、

あの人のような顔立ち、この人のような友をもちたい、

この人のような学識、あの人のような才能がほしいと願い、

自分のもっとも恵まれた資質さえもっとも不満になる。

だがこのような思いに自分を卑しめているうちに、

私はふとあなたのことを思う、するとたちまち私は、

(夜明けとともに暗く沈んだ大地から舞いあがる

ヒバリのように)天の門口で讃歌を歌い出す。

  あなたの美しい愛を思うだけでしあわせになり、

  わが身を国王とさえとりかえたくないと思う。

 

When, in disgrace with fortune and men's eyes,

I all alone beweep my outcast state

And trouble deaf heaven with my bootless cries

And look upon myself and curse my fate,

 

Wishing me like to one more rich in hope,

Featured like him, like him with friends possess'd,

Desiring this man's art and that man's scope,

With what I most enjoy contented least;

 

Yet in these thoughts myself almost despising,

Haply I think on thee, and then my state,

Like to the lark at break of day arising

From sullen earth, sings hymns at heaven's gate;

  For thy sweet love remember'd such wealth brings

  That then I scorn to change my state with kings.

 

中盤あたりはダンスの練習の話のポジティブな変換になっていそうです。引用の妙というんでしょうか、多分もとのソネット29って割合たわいない感じの内容だろうと思えるところ、アンの文脈で読むと、自分の運命を嘆く前半が73話に繋がる気がしたり、“like him”“man”が73話での〈“女”の義務〉を負わない男達の学識や才能を羨む内容に見えて更に胸に染みます。考えてみると74話でのソネット144も、あの文脈で読むから“すごくいい!”と気持ちが盛り上がったのかも……。

 

アンの手紙は「雲雀みたいに舞い上がれるんです」までになっているものの、ソネットの方は舞い上がって天国の門で賛美歌をうたう(sings hymns at heaven's gate)ことにもなっていて、アンの魂が天国に行けた、空から見守ってくれるような印象にもなります。その辺は台詞にはせず、父ウォリックと妹イザベルの元に走っていく光に満ちた画と、「どうかあなたが幸福でありますように」にされているかもしれません。

 

手紙の件についてもここに来て話が回収されるとは考えていませんでした。読まないままにしてしまった3巻9話でも十分意味はある話になっていて、終わりと思っていると更に先があるというまたもやの凄技です。アンがこの手紙をくれた頃、リチャードは自分(だけ)が愛されないと呪いで自分を縛って周りが見えずにいたとも言え、アンの「なげき」や暗い思いも「美しい愛」も理解したことが後半に繋がるように思えます。

 

3巻感想9話それぞれの獲物について

 

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王冠の代償について

ただ、アンが見守ってくれるかと思われた場面直後ではリチャード自身が喀血する展開になりました。

 

現れたジャンヌには「大切な人達を皆差し出したっていうのに」「何もかも●●●●奪われるなんて」と言われ、既に多くを失ったリチャードは「病(これ)は……、神の、温情かもしれんがな……」と答えます。

 

16巻74話感想で書いたように、RⅢとの関係でいえば、バッキンガムやアンの想いはリチャードに届いてリチャードはそれに応える形になっており、また73話では、リチャードは自身の王位を危うくしてもエドワードに愛を伝える道を選びました。そうではあるのですが、リチャードは、そもそも、大切な人達の思いに応えようと王冠も愛も失わない道を模索したにもかかわらず、むしろ大切な人達が王冠を厭うかのようにいなくなっています。そうなった今、リチャードは自分が王である意味も生きる意味も見失いかけているということなのでしょう。「欲しいものも大切なものも、君にはもう何もない」。

 

ジャンヌの言葉はそれで終わらず「君にはまだあるだろう」〈すべての“始まり”〉、と続けられ、そこでリチャードが求めたと同時に荊棘でもあった母セシリーの登場になっています。

 

RⅢで母が呪いの言葉を告げるエピソードを通じて、王になろうとした根底に愛の希求があったことをリチャード自身が深いところで認識するのがこの75話かと思います。王冠への思いは多分それに尽きるものではなく、『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』モチーフで別側面の王冠への思いが描かれたり、王冠か愛かの選択も迫られたりしましたが、HⅥのリチャードの独白が“始まり”に置かれ、根底にある愛の希求に焦点が当たって描かれていたのは事実でしょう。王冠を求めたそもそもの思いを、今話でリチャードは自覚することができたと言えそうです。その一方、今話では、王冠=光であったはずの父との関係が失われます。また、王冠に愛を求めていたことに気づけば、愛する人達がいなくなってなお王でいる意味が一層問われることにもなります。それに答えを出すのが76話という気がします。

 

読んでいる時は、セシリーのまさかの暴露発言とRⅢとは逆になる展開だけでやられましたが、その前にアンとの話がじっくり描かれて、ここに繋がるのかと改めて思いました。HⅥ、RⅢを踏まえて、始まりと終わりの形で1巻1話からの壮大な回収になっている素晴らしさは言うまでもありません。

 

母の呪いについても13巻で父の光を実現して一度は退ける形になったので、『薔薇』セシリーは退場かもしれないと考えていました。RⅢ通りの流れとはいえ、本当に先読みができません。そして、こちらこそが完成形だなと納得します。

 

13巻56話リチャードの戴冠について

 

また、ソネット29の最終フレーズは、王冠より愛がほしいというものになっています。偶然かもしれませんが、菅野先生なので、仕掛けている可能性はあると思います。ソネット前半部は73話にも掛かりつつ、今話後半の〈望んでも得られぬものに縋〉る〈理不尽な苦しみ〉というセシリーとリチャードの描写にも重なる印象です。

 

横道的な書き方になりますが、結核はアンからの感染と考えるのが順当ながら、元々のリチャードの体調不良が結核だったと考えられなくもありません。子供については、物語を動かす動因であっても実際どうだったかはわからない『マクベス』の形にするんだろうなとも想像しました(これも最終回でハズれるかもしれませんが)。薬による堕胎というのが一番ストレートな解釈でしょうが、体調不良自体が妊娠でなく病状だったとも考えられそうですし(私を含めて多分少数派で、実際はわからないとするのもここに近い)、逆に、71話では薬が効かなければもっと確実な方法があると敢えて言われているので、薬は使っても懐妊が続いている可能性もありとされた気がします。そして、75話で直接言われている訳ではないにしても、自分の子供を受け入れられない気持ちも理解できる形に話が重ねられているんですよね。

 

母からの呪いについて

戦に向かおうとするリチャードに、母セシリーがリッチモンドの勝利を願う呪いを浴びせるのはRⅢ通り。75話でセシリーに語らせている訳ではないですが、RⅢでは「私の最も重い呪いを持ってお行き」(take with thee my most heavy curse)です。こういう細かい箇所も“ああ!”ってなります。

 

骨太な流れなので細かい場面のよさをどこで書いていいか迷うものの、RⅢの「進軍太鼓を打て!この噓つき女どもが神聖なる王に浴びせる罵詈雑言を天に聞かせてはならぬ。」が、まさにセシリーの話が太鼓の音で聞こえない流れにされていたり、「進軍させてください(中略)太鼓を打て!」(RⅢ)というリチャードの台詞が、セシリーからリチャードを守ろうとするケイツビーの台詞になっていたのも“なんていい描き方だ”と思って読んでました。

 

母セシリーの暴露発言、下の記事にある、実は血統が繋がっていなかったという話も入っているかもしれません(最終的には関係なかったかもしれませんが、この辺の想像を喚起させるものではあった気がします)。ただし、記事は中まで読むと、リチャード3世自身がということではなく、どこの時点でかはわからないという話になっています。

www.afpbb.com

 

リチャードの呪いについて

「おまえの母親は並外れた産みの苦しみを味わった、その上、生まれてきたのは……神のご意志に背いた血塗れの悪魔――予言しようリチャード、いずれ大勢の老人が、未亡人が、孤児が、おまえによってもたらされた非業の死を嘆き、何故生まれてしまったのだと、おまえの生まれた日を呪う」(75話)

 

『ヘンリー6世』(以下、HⅥ)では元々ヘンリーの台詞だったこの予言と呪いの言葉が、『薔薇』では1巻1話から母セシリーの言葉であることが微妙に仄めかされつつリチャードを縛る呪いとして登場し、RⅢの最終部で原案リチャードにダメージを与えただろう母親の呪いのエピソードに再度使われて物語の環を閉じるようになっています

 

ここだけで参ったという感じですが、HⅥの本来の箇所に当たる第1部最後の30話でヘンリーによって語られたこの呪いの言葉は、『薔薇』ではセシリーが吹き込んだものとして描かれ、読者には、そもそもがセシリーの呪いであることが示唆されました。30話でも「私の最も重い呪いを持ってお行き」が踏まえられている気がします。しかも「おまえの母親は並外れた産みの苦しみを」の言葉からすれば、30話でのこの変換も不自然ではありません(むしろHⅥでヘンリーがこう言い出す方がいきなり感があるとも言えそう)。

 

そして30話でも、母親の、夫以外との男性関係が仄めかされていたとも読めそうです。30話の方で描かれているのはヘンリーの母親であり、しかもヘンリーが錯乱の中で自分の欲望や狼や悪魔と結びつけただけのようにも思いますが、「この世の罪はすべて悪魔が仕向けたもの」(30話)という(多分セシリーによる)台詞を深掘りしたくもなります。今話でセシリーが強姦されたシーンは狼の影絵で描かれており、狼はよくある喩えでもありつつ、30話の「預言者は言った……、狼がやってくる…、何も知らぬ子羊は、悪魔の牙に、喉を差し出す」の台詞も連想させます。逆に30話では引用されなかった部分では、HⅥでは「私が聞いた他のことも真実なら、お前が生まれてきたのは」と言う途中でヘンリーがリチャードに殺されており、原案でも、ひょっとしたらリチャードが父の子でないという解釈も……あり、だった?と逆にここから思ってしまいます。

 

30話の時点では、セシリーがヘンリーに諸々を吹き込んだ事情はリチャードには全く見えず、身体ゆえに愛を拒絶されたものと映りました。身体のために母に愛されなかった自分が、ヘンリーからも拒絶されたとリチャードには思われていたものの、この75話から振り返ると、セシリーも、ヘンリーも、リチャードに自分の罪を投影して拒絶したと言えそうですし、女性の側の欲望や「闇」が拒絶されたとも言えそうです。

 

7巻30話感想 予言と呪いについて

 

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Photo by Alex Blăjan on Unsplash

 

母セシリーの荊棘について

その一方、夫としてのリチャードは、アンの抱えた闇にずっと気づかないままでした。セシリーが語るヨーク公とセシリーの関係は、リチャードとアンとの関係のようにも見えます。「王位への野望と重圧の間に妻の居場所」を作らなかった点では、リチャードはヨーク公と同様か、それ以上にアンに無頓着だったかもしれません。セシリーの思いは、アンが73話でリチャードに吐露した暗い感情と重なりそうです。リチャードがそれに向き合い、アンに自分を重ねて得られない愛という荊棘に気づいたことが、今話でセシリーが置かれた状況や彼女の感情を理解させるものになっていると思えます。

 

73話からの流れは完全オリジナル・ストーリーだったとしても見事な積み重ねだと思いますが、『薔薇』では、更に、73話で(こちらは推測であるものの)RⅢ4幕1場、今話で4幕4場に対応する形で、原案とは違う内容も盛り込まれて描かれています。そうでありながら、考えてみるとRⅢ4幕1場と4幕4場って、女性登場人物達が自分の運命を嘆く場面でもあったりします。この重なりの複層性。

 

セシリーは「気を許し」たために暴行されたことを「罪」と言い、リチャードを「“罪”から生まれた悪魔の子」としますが、リチャードは「貴女は、犠牲者だ……」と看破し、〈望んでも得られぬものに縋り、理不尽な苦しみから、逃れるために“己”を罰した〉「己を罪人だと……悪魔だと、そう思わなければ……とても耐えられない」傷も見出します。しかも、得られない愛を求める母親と自分が「そっくり」と、自分にも当てはまることとして言う訳です。

 

「俺は誰にも似ていない」(『薔薇』)(HⅥ「おれはどの兄弟にも似ていない」)と言ったリチャードが「母上にはそっくりだ」と言ったのもすごいなと思ったら、まさにRⅢのこの場面に「私も母上と似たところがあって」とあるんですね! この台詞のある場所でこの使い方、唸りました。

 

〈どれ程憎んでも…母上私は、私は本当はずっと――〉、の独白に、回想場面の幼いリチャードが言う「王さまになったらね、なんでものぞみ通りになるんだって」が重なるように描かれます。ソネット29の最終部(の逆)のようであり、もちろんHⅥのリチャードの独白の(逆)変換でしょう。

 

「おふくろの胎のなかにいたときすでに、愛の神はおれを見捨て、おれを愛の花園から閉め出すべく、言いなりになる自然を賄賂で買収した。」「茨の森に迷いこんだ男が、茨を引き裂こうとして茨に引き裂かれ、道を見つけようとして道から遠ざかり、どう行けば広いところへ出られるかわからぬままどうにか行こうと死に物狂いにもがくように」「だから王冠を夢見ることがおれの天国なんだ。」(HⅥ)これも1巻1話から登場したモチーフでした。

 

1巻感想1話(1) 荊棘の森と光について

 

父の光について

呪われ愛を得られないと思っているリチャードに、光としての王冠を示したのが父ヨーク公のはずでした。ヨーク公の子ではないという告白は、それを覆す新たな呪いと言えるかもしれません。与太話になってきますが、1巻1話の感想記事で、最初に予言が出てくるのが『マクベス』的と書いていて、『マクベス』では魔女の予言が最後に覆るじゃないですか。ヨーク公が父でなかったって、森が動かない限り大丈夫という前提が覆ったくらいの衝撃だと思うんですよ、リチャードにも読者にも(この展開を想定していた方には、一緒くたにしてごめんなさい)。

 

光としての父との関係は失われ、王冠を通じて愛を求めたのなら愛する人達はいなくなってしまったことにもなります。血の繋がらないエドワードをリチャードは愛しましたし、ヨーク公の思いを受け継いだ(70話)と思えるのですが、76話を読むと父のことについてはリチャードの気持ちに決着がつけられていない状態です。76話序盤では〈本当に何もかも〉失ったとリチャードは感じています。しかも、(父との関係を失ったことに比べれば重要ではなさそうですし、描かれてもいませんが)リッチモンドを“王の血統ではない”としたことがリチャード自身に返ってもきます。むしろ、リッチモンドの血統が微妙であることが殊更描かれていたのも、「テューダー神話」の示唆であるとともに、この75話の布石にもなっていたんでしょう。菅野先生、どちらの点でも容赦がないです。

 

ただ、『マクベス』とは異なり、76話ではこちらの方も1巻と円環的になる形で答えが見出されています。

 

その問題は76話に持ち越しつつですが、第2部では、セシリーの事情も気持ちもリチャードに了解され、母に愛されたかったことをリチャードが認めて自分に対する荊棘を解き、全面的にではないとしてもセシリーのことも解放したと言えそうです。セシリーもその手が届いた訳でなく降してはいるものの、最後にリチャードに手を伸ばしており、息子の死を願ったRⅢとは最終的に違うものになったと思います。

 

第1部の30話の時点で相手の事情が全く見えなかったリチャードは、呪いの言葉を投げつけ愛を拒絶した(と思った)ヘンリーも自分の魂も「殺す」ことになりましたが、今話では母から「呪いの言葉」を受けても、「貴女の慰めとなるのなら」自分の死を祈って下さいと告げています。RⅢとも逆ですが、第1部とも逆かもしれません。

 

人は亡くなるし、最後は戦場だと思うし、話の流れ自体はもちろんRⅢですが、テイストとしてシェイクスピア晩年の、和解や解放を感じる『冬物語』や『テンペスト』に近づいている印象です。

 

(※RⅢは河合祥一郎訳・角川文庫版、HⅥは小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)

 

今回はソネット29の女声の歌にしたいと思って探したら、ありました! フローレンス・ウェルチの歌、ルーファス・ウェインライト作曲版。特に1:10くらいの“Yet in these thoughts myself almost despising…”からの流れが、アンの手紙っぽい!と個人的には思っています……。文字リンクになってしまいますが、ここから飛べます。

Florence Welch - When in Disgrace with Fortune and Men's Eyes (Sonnet 29) - YouTube

 

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