荊棘の森と呪いについて
物語は、ヨーク公(父上)がランカスター家から王位を取り戻すことを宣言するところから始まります。ヨーク公の台詞で、両家を象徴する薔薇と時代背景についてざっくり示された後に、幼いリチャードが森の中をさまよう場面に移ります。
その森の中で、迷ったリチャードを呪いのような言葉が襲います。『薔薇』の方でなく対応箇所の『ヘンリー6世』(HⅥ(3))の方から引用しますね。
私はここに予言しておく(中略)男たちはその息子の、妻たちはその夫の、孤児たちはその親の非業の死を嘆きつつ、おまえの生まれた日を呪うときが必ずくるだろう。おまえが生まれたときフクロウが鳴いた(中略)おまえの母親は並みはずれた産みの苦しみを味わった、その結果生まれた子供は母親の期待を並みはずれて裏切り、あのようなりっぱな木になる果実とはとうてい思えぬ不格好な、醜い、肉のかたまりであった。
何がすごいって、HⅥ準拠ながらいきなり第三部のほぼ“最後箇所の”台詞が使われていることです。最後部を冒頭にもってくる手法はもちろん他でもあると思うんですが、この言葉がはじめに置かれることでリチャードを縛り続ける呪いや予言のように働いてきます。しかも『薔薇』7巻まで既読の方と原典をご存知の方はこれが誰の台詞かおわかりのように、これが7巻で再登場する効果たるや……。
さらに『リチャード3世』(RⅢ)の後半部にもこれと類似した台詞があったりしますが、これについては下の妄想を語るところで書きます。
森については、おそらくHⅥ(3)3-2の台詞の隠喩が下敷きにされているだろうと思いますが、荊棘は『薔薇』のこの箇所では絵のみで描写されています。ドラマティックです。そして荊棘はこの後何度も出てくる隠喩になっていますね。
そしておれは──茨の森に迷いこんだ男が、茨を引き裂こうとして茨に引き裂かれ、道を見つけようとして道から遠ざかり、どう行けば広いところへ出られるかわからぬままどうにか行こうと死に物狂いにもがくように──イギリスの王冠をつかもうと苦しみもがいている
これ、HⅥ(3)ではエドワード兄がエリザベスに出会うあたりの場面に出てくる台詞です。1巻裏表紙で菅野先生が「セリフ・設定・人物……史実ネタを……リミックス」とおっしゃっているように、いかに様々な箇所から台詞を組み合わせて物語を巧みに構築されているかがわかります(史実との組み合わせのすごさも後々堪能できます)。始まり方、みごとすぎ。
母と父の設定について
森には母セシリーがリチャードを遺棄しようとして連れて行っています。このことも巻を追うごとにもっとはっきり描かれていきます。RⅢでは、老いたセシリーがリチャードに向かって(『薔薇』だとちょうど11巻の箇所あたり)、生まれる前に自分が殺しておけばよかった、というようなことを言いますが、菅野先生はそこをうまく毒親設定にしていますね。ここではセシリーの葛藤や、“普通でない子”を生んだ負い目みたいなものも描かれていていい感じです。『薔薇』ではリチャードの顔がどちらかといえば母親似だったりして、男のように振る舞う、あるいは男と同等の地位に立つ娘を許せない母親みたいな、母娘葛藤的なものもちょっと感じてしまいます。
そんなセシリーに対して、父のヨーク公の方は、生まれたリチャードに「この子に私の名を与えよう」と言い、愛情を傾けています。名前については、HⅥ(3)2-1で兄エドワードが言う台詞「勇敢な公爵〔=ヨーク公〕はその名前をおまえに残された」からの転用でしょうか。
原典リチャードも、身体のせいで愛されないからせめて玉座を狙うというようなことを言うのですが、HⅥ部では愛されていない描写は実はあまりありません。『薔薇』は、”自分は愛されない”とリチャードが思い込む原体験として母による嫌悪を、玉座への渇望として栄光ある父への愛を布石のように描いていると思います。
「父上は光」
ヨーク公とウォリックがランカスター家から王位を取り戻す談義をするところもHⅥ(1)〜(3)の様々な箇所から取られていています。
王位をめざすヨーク公を「光」だとリチャードが思う場面は、そこにヨーク公の「私はこれからこの国に大嵐を呼び起こす」「その嵐はこの私の頭上に太陽の如く黄金の冠が燦然と輝くまで荒れ止まぬであろう」(『薔薇』)という台詞が重なって、美しく印象的です。
坪内逍遥と菅野先生ご自身の訳文を混ぜて使っているとのことですが、ここに限らず台詞も本当に詩的できれいです。
同箇所はHⅥ(2)3-1だと大嵐が「止むのは、この頭にいただく黄金の冠が、(中略)狂気から生まれた怒涛の騒乱を鎮める時だ」とやや不穏さも含まれる台詞なんですが、神々しい箇所が引かれていて、父上は光、というイメージが強まります。
「光」と「楽園」はキーワードになってきますね。
呪いと魔女について
シェイクスピア他作品との関連など妄想込みで語ります。
HⅥ(3)の最後部の台詞が最初に呪いや予言のように使われていることは、亡霊のジャンヌ・ダルクがリチャードに語りかけること相まって、なんとなく『マクベス』の最初のシーンも思い起こさせます。マクベスは、魔女から「将来王になる」と予言され王位を簒奪してしまうのですが、それは実は破綻込みの呪いのような予言です。
ジャンヌが「魔女・悪魔」で「男装」者だということは冒頭のセシリーと兄ジョージの会話で語られますが、HⅥ(1)ではジャンヌは“生きた人間”でかつ魔女設定です。ジャンヌが悪霊を召喚し、その悪霊にフランスを助けてくれと懇願しているところをヨーク公に見つかって捕まり、この後の『薔薇』2話でも描かれるような形で火刑に処せられます。
同時に、森に連れて行った過程や、その後の7巻の展開、RⅢでの類似の台詞を考えると、森での言葉はセシリーによる呪いの言葉でもある気がします。そもそもセシリーは、兄たちには、森の中には魔女がいるから行ってはいけない、と言いながらリチャードを置いてきてしまうんですよ。RⅢではセシリーとエリザベスが類似の台詞を言っています。(RⅢからですが、多分ネタバレ的なところではないと思うので書いてしまいます。)
公爵夫人〔=セシリー〕 おまえがこの世にうまれてきたのはこの世を私の地獄にするため、生まれるときからたしかにおまえは苦しみを与えた
(中略)
エリザベス おまえに親を虐殺された子供たちは(中略)嘆くだろう。おまえに子供を惨殺された親たちは(中略)年とともにそれを嘆くだろう。(小田島雄志訳・白水社版)
ジャンヌ/セシリー/マクベスの魔女=予言・呪い ジャンヌ/リチャード=異端者としての魔女・悪魔 が少しずつ重ねられている印象です。
それから、予言+子どもを捨てるのって、ひょっとして
のオマージュだったりも……するのかな、と。『薔薇の葬列』の方もオイディプスとは父と母が逆の立ち位置です。
そもそも1話ずつ書こうとも思っていなかったのに、これはまずい。1話1回でも書き終わらなかった……。偏執的で気持ち悪かったらごめんなさい!
#薔薇王の葬列
— 第7世代実験室 (@dai7sedaizikken) 2021年9月16日
さんは現在連載8周年を記念して人気投票を実施中との事!#ダイナナ のヘンリー六世 #宮崎秋人 さんと、菅野先生の描くヘンリーが重なるように思うのは…私だけ?どちらもお美しい…
人気投票の行方、楽しみです!
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