『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

PARCO劇場、森新太郎演出・吉田羊主演『ハムレットQ1』感想

2024年6月上演。

 

感想アップがすっかり遅くなってしまいましたが『ハムレットQ1』も観ました。様々な上演版の中にQ1を部分的に採用しているものはあったものの、Q1としての上演は挑戦的でしょうし、短い期間内に通常版と見比べることができました。Q1と通常版というより演出や演者による印象の違いの方が大きい気がするものの、最初にQ1について少し書いて、今回の上演の感想をその後に書きます。こちらのクリックで今作の感想に飛んでいただけます。

 

stage.parco.jp

 

Q1の構成

上リンクのパルコステージ公式サイトでの今回の翻訳者の松岡和子先生の解説によると、モダンテクストはQ1、Q2、F1の折衷版、出版されている『ハムレットQ1』の翻訳者・安西徹雄先生によると通常版はQ2とF1の合成・混成とのことです(『ハムレットQ1』光文社)。私はQ2、F1の細かい違いまではわからず、よく参照するのは小田島雄志翻訳版なので、Q1と通常版という言い方にします。松岡先生は「母ガートルードとの関係も、Q1をご覧になると、あっと驚くのでは?」と書かれていて、展開としての違いはそこが一番大きいでしょう。

 

観てみると、前半は通常版の方がハムレットの心理描写としてわかりやすい気がしたものの、後半は松岡先生がコメントされている通りガートルードに陰影ができて私はかなり好きです。

 

前半は、“To be, or not to be”(生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ​​)の独白がかなり早めに来ます。父の亡霊に会って復讐を誓い、これから正気を失った振りをするという台詞の後、次にハムレットが登場する時にはこの独白になり、そのまま尼寺の場です。ポローニアスに狂気の振りを見せるのも、ローゼンクランツとギルデンスターンとのやりとりも、旅芸人達と会うのもその後です。河合祥一郎先生は、むしろQ1の方がハムレットの心理が自然でわかりやすいとしています(同『ハムレットQ1』)。でも今回上演を観ての私の印象は逆でした。確かに、“To be, or not to be”が旅芸人の芝居に触発されて復讐の思いを強める独白より先なのはよいかもしれません。でも、狂気の振りの場面なしに尼寺の場になるのも、その後でポローニアス達を揶揄うような狂気の振りと、旅芸人一座を迎える順番になっているのも、ロジカルには納得しやすい一方、ハムレットの感情表現としてはやりにくいのではないかと思いました。

 

後半の話については画像を挟みます。え、『ハムレット』でネタバレ気にするの?と言われそうですが、通常版とは違いますし、松岡先生も上のように書いているので一応。画像クリックで今回の上演の感想に飛びます。

 

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後半ではガートルードの立場がかなり異なっています。寝室の場でハムレットから復讐を助けてくれと言われた彼女は、クローディアスによる先王暗殺を知らなかったこと、復讐計画を決して洩らさないことを彼に告げます。通常版では、ハムレットが寝室を出る時に前言を撤回しクローディアスの寝室に行けばいいと言いますが、そういう台詞もありません。更にその後、彼女はホレイショーから、クローディアスによるハムレット殺害計画も聞きます。そのためQ1の最終場面では彼女は承知の上で毒杯を飲んだことになるでしょう。通常版でも、ガートルードが承知の上で毒杯を飲んだ解釈・演出はありますが、Q1はもっと明確です。

 

ハムレットが戦に挑むフォーティンブラスを目にして彼を讃え、復讐の決意を新たにする独白がないという違いもありますが、観劇中はここは私にはほとんど気になりませんでした。この記事を書いているなかで、後からこの欠如について考えました。

 

今作の感想

森演出・吉田羊主演『ジュリアス・シーザー』と同様、今作も舞台装置が象徴的で美しかったのも印象的でした(美術は堀尾幸男さん。『ジュリアス・シーザー』の美術とは違う方のようですが)。左奥に向かって高く傾斜する城壁を思わせる装置で、バックにはデンマークを中心にしたモノトーンの古地図。冒頭の城壁シーンでは夜の雲のように見えたのが明るくなると地図だとわかり、戦争が懸念されるノルウェーとの交渉、イングランドへの依頼などの地政学的関係やその思案を感じさせたのもよかったです。同じ装置のまま、宮廷内、墓所が表現されます。

 

吉田羊さんのハムレットは愁いと闇い怒りを帯びた貴公子、飯豊まりえさんのオフィーリアはたおやかで健気、牧島輝さんのホレイショーは慎ましい学究的青年の印象で、オーソドックスな人物像の感じがする一方、吉田栄作さんのクローディアスはスマートで有能な、捻った現代化演出で観ることが多いタイプに思えました。広岡由里子さんのガートルードは捻っているのでなくQ1準拠ですが、Q1自体が通常版ガートルードからすると意外性があります。衣装もクローディアス、ポローニアス、レアティーズ、ロゼ・ギルが近現代的スーツ、更にヴォルティマンドとコーネリアスノルウェー交渉担当)はもう現代の黒スーツの女性。ハムレットとオフィーリアの衣装は、“雰囲気”中世を抽象化したもののようにも見えます。服飾史は詳しくないので誤解しているかもしれませんが、少なくともヴォルティマンド達と同時代的ではなく、人物像も時代設定も混成的に思えます。ガートルードのドレスは近現代寄りでしょうか……。大鶴佐助さんのレアティーズは、最初からハムレットに少し敵対心があるかもと感じ、もしそうなら捻った人物像でしょうが、これは私の気のせいかもしれずはっきりしません。佐藤誓さんのポローニアスはやり手な政治家風で滑稽さは少なめ、ローゼンクランツとギルデンスターンが道化的でしたが、これを新解釈的と考えていいかどうかはわかりません。

 

ひょっとしたら異なる時代の価値観の対立的に見せているのかとも一寸考えました。クローディアスのノルウェーとの外交は今日的視点からは上首尾な戦争回避に思えますし、それは戦場で自らノルウェー王と戦った先王と対照的とも言えるので、新秩序・新時代のクローディアス達と、年齢は若くても父の遺志を尊重する旧秩序・旧時代のハムレットという対照とか。ただ、近現代的スーツの人物が新時代または新解釈的かというときれいにはまる感じでもなく、そういう話が今作の焦点とも思えません。

 

時代の価値観の対照とかではなく、『ジュリアス・シーザー』の時も人物像は割合スタンダードな感じながら、アントニーだけ台詞の描写とは若干違う作りで展開も少し変えられていたので、今回はクローディアス(とQ1なので必然的にガートルード)を典型的イメージとは変えたということかもしれません。クローディアスの最期もやや意外でありつつ、このクローディアスならそうだなと納得できる展開ではありました。

 

森演出で面白かったのは、そういう演出意図ではないと思うにもかかわらず、クローディアスの知的で悲哀的な造形や地政学を想像させる装置によって『ジュリアス・シーザー』と類似の構図にすら思えたことです。羊さんハムレットがブルータスに被るということじゃないんですよ。ここから観念奔逸的・妄想語りになりますが、クローディアス=ブルータス、先王=シーザー、ハムレットアントニー、フォーティンブラス=オクテイヴィアスという類似の構図に思えたということです。ブルータスと違ってクローディアスは暗殺を隠し王位に就いているものの、統治者としては有能で和平志向(今作ではそう見えます)。そのクローディアスをハムレットは仇として復讐し、劇の冒頭で警戒され貶されている敵方のフォーティンブラスに王位を与える訳です。Q1ではハムレットがフォーティンブラスの戦いを見て彼を讃える独白もありませんし、今作の飯豊さん二役のフォーティンブラスは野心的新興勢力で軍事国家に導きそうな危なさもなんとなく感じました。森演出版『ジュリアス・シーザー』の皮肉な展開に通じるようにも……。(飯豊さんは狂乱シーンでも静かな悲しさを滲ませるオフィーリアも、強い統率力を感じさせるフォーティンブラスもとてもよかったです。同じ森演出・吉田羊主演『ジュリアス・シーザー』の時も、藤野涼子​​さんがポーシャとオクテイヴィアスを全く違う印象で演じていて、この時も私は彼女のオクテイヴィアスがよかったと思いました。)

 

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ただ……『ジュリアス・シーザー』の際にはオール・フィメールの挑発性と統合感があり、オール・フィメール以外の点ではスタンダードな作りもよかったのですが、今作は、スタンダードな作りの方は様式化されすぎた気がし、クロスジェンダー的配役・時代混成的の試みの方はちぐはぐな感じがしてしまいました。私の感覚にすぎませんが、『ジュリアス・シーザー』の時は吉田羊さんが男性役の回路を通らずにブルータスになっていたのが、今回はかっこいい男役風になっていた気がしてハムレット人間性が見えにくくなり、個人的にはそこが一番残念なところでした。佯狂がパペット的な声の演じ分けだったのも様式的に感じ、狂気には見えにくく、狂気の振りの表示にすぎないとしても表面的であるように思いました。台詞に“ああ”や“おお”が多いのも今作では気になったんですよね、翻訳上多めなのか、台詞回しのせいなのか。ヴォルティマンド達やクローディアスの現代感覚とハムレット側の古典性の調整も今ひとつに感じてしました。挑戦的な試みでは仕方ないかもしれないと思いますし、度々書いているように私の『ハムレット』ストライクゾーンの狭さのせいかもしれません。ただ、吉田羊さんはブルータスも『ウェルキン』の主人公も本当によかっただけに余計に残念だったり。

 

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女性キャストが多かったことも旅芸人一座が全員女性になっていたのも嬉しく興味深かったのですが、ヘキュバの語りと、クローディアス達に見せる芝居のモードがあまりに違うのも違和感がありました。宝塚パロディ風の歌(曲調がそんな風に思えました)が入るのは、抑制的に語って欲しいというハムレットの台詞にも反するのでは。芝居と絡めてハムレットが、特にオフィーリアに性的なことを言う今日的には問題に見えるシーンについては、今作は吉田羊さんが女性であることに甘えて工夫がなかったか、女性なので敢えて露悪的に頑張ってしまったかに思えました。

 

もちろんスタンダードであっても様式的には見えないところも、意外さがよくはまる箇所もあって、例えば、彩の国版以上にスタンダードとも言えるオフィーリアの狂乱シーンはよかったです。こちらは歌が大切にされ、飯豊さんがハープも演奏し女性達でしっとり歌う形になっていました。しかもQ1のト書きにはオフィーリアがリュートを弾いて歌いながら登場とされているそうです(『ハムレットQ1』小林章夫解題)。楽器こそ違うもののこちらも原点回帰的ですね。今作も彩の国版も、元の戯曲を尊重しながら自ずと別方向に展開した趣きがあり、両方が好印象でした。ハムレットがオフィーリアの死を知った墓場の場面で、レアティーズに“自分の方が彼女を愛していた、兄が何をしてやれる”と理不尽な言葉を吐く箇所は、今作ではレアティーズが抱き上げ墓から出したオフィーリアを墓に戻してやるためにそうしたように見えました。ここは意外でありつつ納得感があり、やはり彩の国版との演出・演技の違いが印象深いところでした。

 

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スタンダードな印象でも違いが出ると思えたのはホレイショーもそうで、今作の牧島さんも彩の国版の白洲さんも友人感だけでなく臣下感がありつつ、白洲さんは真っ直ぐに誠実な面が、牧島さんは知的で温厚な面がよく出ていたと思いました。Q1ではハムレットがホレイショーに“誰よりも頼れる”と言う台詞も短めで、羊さんハムレットもフランクであっさりめの語り。でもホレイショーが感激するという作りでした。“推しが尊い”と心の声が聞こえて来そうというか、ハムレットへの仕え方に『光る君へ』の清少納言っぽいところがありそうというか(清少納言より態度は控えめです)。白洲さんホレイショーは自分を物の数には入れず一歩下がっている、『薔薇王』ケイツビーに近い感じ。Q1の最後にはホレイショーが亡くなったハムレットにかける台詞(Good night sweet prince: And flights of angels sing thee to thy rest!​​)がないのですが、牧島さんホレイショーが倒れたハムレットを抱きしめている様子で、それを補って十分に感じました。