『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

シス・カンパニー『ザ・ウェルキン』感想

ルーシー・カークウッド作、加藤拓也演出、大原櫻子・吉田羊主演、2022年上演。WOWOW放送。

 

今回はシェイクスピアとも『薔薇王』とも無関係の作品です。物語の舞台がイギリスのサフォーク地方だったりはするんですけどね。

 

www.siscompany.com

 

公式サイトのあらすじから

1759年、英国の東部サフォークの田舎町。
人々が75年に一度天空に舞い戻ってくるという彗星を待ちわびる中、
一人の少女サリー(大原櫻子)が殺人罪で絞首刑を宣告される。
しかし、彼女は妊娠を主張。妊娠している罪人は死刑だけは免れることができるのだ。
その真偽を判定するため、妊娠経験のある12人の女性たちが陪審員として集められた。

 

重い話ではあるものの、ともかく戯曲が素晴らしく、演出も印象的で演者達も本当によかったです。初めの方では“あ、『12人の怒れる男』の女性版的な感じかな?”と思わせて違う方向に行きます。多分多くの人はそう推測するんじゃないでしょうか、それを逆手に取るようにうまく転がされ、物語の展開にも引き込まれます。

 


www.youtube.com

 

とはいえ『12人の怒れる男』の女性展開かと予想した時でも、嬉しかったりはしたんです。複数の女性がそれぞれ個性的なキャラクターで中心になっている作品は、いくつか思いつくもののそこまで多くはない気がします。オールフィメールの『シェイクスピア・トリロジー』を観た時のようなわくわく感がありました。冒頭から、女性達が当然のように下に置かれ都合よく使われていること、同時に、女性達がそれに従順という訳でもなくそれなりに悪かったり反抗的だったりすることも描かれます。

 

司法の理不尽と人々の残酷さに打ちのめされる感じがする点や、人の尊厳を守るために何をするかを考えさせられる点では少し前に観たナショナル・シアターの『るつぼ』も思い出したりしました。ですが、『るつぼ』の方は、ジェンダー的に旧来の価値観に思えてもやもやしたところもありました。それは主題とは言えない部分とは思うのですが、少女アビゲイルが魔性の悪女的設定ということだけではありません。既婚者で雇い主のジョンと未成年で未婚のアビゲイルとの関係がむしろアビゲイルが望んだものとして描かれる点や、ジョンとエリザベス夫妻の関係が(展開的におそらくそれ以外の描き方はできないとは思うものの)後半でかなり美しく昇華され、エリザベスが自分に非があったといった言い方をする点でもそう感じます。それでもナショナル・シアターのリンゼイ・ターナーの演出は、少女達の抑圧と反抗をうまく引き出す工夫があったと思いますし、それ以外のところも含めて美しさと恐ろしさがあり、作品としても魅力的ではありました。一方、『ザ・ウェルキン』は、男女の力関係について戯曲自体がとても挑発的だと思います。

 

www.ntlive.jp

 

『ザ・ウェルキン』も演出がよくて、最初に女性達が家事的作業や育児をしている箇所が絵のように美しく、その一方でそれが労働や作業であることもきっちり示されるのも好印象です(これを最初に示すのは戯曲上での指定なのか、演出オリジナルなのかわかりませんが)。また、序盤には、暗い舞台での蝋燭の光や、大道具的な四角い光の枠の下降など、暗さの中での光が印象的です。「ウェルキン」とは「天空」を意味する古語だそうで、彗星もモチーフに出てくるので、視覚的に、でも抽象的に、天空や星空を連想するものになっている気がします。そうではありつつその演出が決して悪目立ちもせず過剰でもなく、後はほぼ室内での会話劇のみになっており、抑えめなところも含めてよいと思いました。

 

WOWOWの放送では、演出の加藤拓也さん、サリー役大原櫻子さん、リジー役の吉田羊さんのインタビューが付いていたのも嬉しいところ。加藤拓也さんがとても若い方で驚きました。インタビューでもジェンダーの視点は(敢えて拘らなかった面も含めて)言及されていました。

 

吉田羊さん演ずる助産師リジーは、おそらく観客が一番共感・感情移入しやすい登場人物で、彼女の視点から物語を見る役割だろうと思います。ある種のずるさも抱えつつそれでも凛とした吉田さんのリジーは、陪審員としての主張が彼女の倫理性や助産師の仕事から来る隣人愛だと思わせます。それが実は……と後から別の文脈がわかり、そこから別の感情が見えてくる感慨がありました。

 

大原櫻子さんは『メタル・マクベス』でのマクベス夫人を観た時も少女っぽさと迫力を備えた人だと思いましたが、今回のサリーでも、やはり少女の面影がありつつすれた太々しさがあり、それが虐待的環境を生き延びたからと思わせる雰囲気を醸し出して見事でした。特に好きだったのは、彼女が駆け落ちした男との出会いを語る場面で、日頃の生活に対する倦怠もロマンティックな憧れも熱に浮かされた狂気も感じさせます。今作ではそれが最終場面と少しつながる形になっていた気もします。後からのインタビューで、一番最後の台詞については大原さんの解釈と演技だったと知って更に感動しました。内容を書かないと意味不明かとは思うのですが(すみません)、観ている時はまさに大原さんが演じた通りに受け取り、インタビューを見て戯曲からは別解釈がありうることを理解しました。ここは大原さんの演じ方でよかったと言いたいです!

 

今回はなるべくネタバレにならない方向で書いたつもりですが、途中の展開についてもう少しだけ書きたいので例によって画像を挟みます。

 

Unsplash Cristofer Maximilian

 

サリーの妊娠の真偽を判定するために12人の女性が陪審員として集められたはずなのに、途中で医師が診断して懐妊を確定することになります。助産師が産科医に主導権を取って代わられる歴史や、女性達の経験が医学の中で無化されがちな話も彷彿とするものでした。また、前半で女性達が時間をかけたはずの話が結局無駄になってしまうことも、家事・育児の中で起きがちな、作業が無駄になったり全然評価されなかったりする事態を思わせます。リジー助産師としての専門性を軽んじられる展開でもあるのですが、一方、前半のリジーはサリーのために何としても医師の診断によらず妊娠だということにしたかったはずなのです。妊娠の確信が持て、加えてその証拠があっても強硬に否定する陪審員がいたからこそリジーは医師の診断も受け入れたと思える筋にもなっており、それまでの経過は実は無駄になっていないとも言えます。これに限らず、そうした複層性を想像させるエピソードが絡んで展開するのも本作の魅力だと思いました。