『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

マシュー・ボーン振付『赤い靴』感想

マシュー・ボーン振付、2020年上演。WOWOW放送。

 

祝『レイディマクベス』制作、アダム・クーパー出演ということで。2年くらい前に上映された作品ですが、クーパーが出演した『赤い靴』の感想です。

 

多分『レイディマクベス』クーパー出演のニュースに沸いた方は『赤い靴』も観ていらっしゃる気がするものの、『赤い靴』でのクーパーは、ディアギレフがモデルとされるレルモントフ役。醜くないオペラ座の怪人のようでもあります。帝王然としつつも、自分のもとを去ったミューズのヴィクトリアを諦められず苦悶するクーパーが観られます。未見の方はこの機会にいかがでしょうか。

 

愛か芸術か、とか、踊ることが憧れでも呪縛でもある『赤い靴』って、ある意味『薔薇王』っぽいかもと(こじつけ的に)思ったりもしました。以下、クーパーの役の話、原作映画版の話、映画版と比較したボーン版の話の順で書いています。

 

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『レイディマクベス』で主演が天海祐希さんなのにクーパー推し記事でごめんなさいですが、天海さんもクーパーのファンみたいですし。天海さんは、マクベス夫人も、実はマクベスも似合いそうな気がします。天海さんのマクベス夫人と聞いて、以前どこかで読んだ、マクベスと夫人とを1日交代で演じるというアイディアを思い出しました。今回という意味ではないですが、天海さんはその夢想ができてしまう方だと思います。東京までは行けないと思いますし、そもそもチケット入手も大変そうですが、盛り上がって配信や映画館上映になると嬉しいですね

 

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『赤い靴』は以下で有料配信があります。WOWOWでまた再放送もあるかもしれません。

Watch Matthew Bourne's The Red Shoes Online | Vimeo On Demand on Vimeo

 

trailerが以下。


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アダム・クーパーのレルモントフ

中年のダンディな色気があるのに加えてカリスマ的な支配者の雰囲気。登場した瞬間に“あ、ディアギレフを重ねているのか”と思いました(本物のディアギレフがそんな人かどうかはわかりませんが)。てっきりボーン版での捻りなのかと思ったら、そもそも原作映画のレルモントフのモデルがディアギレフだそうです。かなり前に映画版も観ていたのですが、ボーン版では瞬時にピンと来た連想が全く働きませんでした……。後から記事を読んで驚いたほどです。同性愛・異性愛両方を描くボーン作品だからの連想だったんでしょうか、後からも書くように、私は結構文脈に引きずられて観てしまうのかもしれません。

 

ヴィクトリアが彼の前で踊りを披露した場面の直後に2人のパ・ド・ドゥもあるので、『オペラ座の怪人』でのファントムとクリスティーヌのデュエットも想起され、ミューズが見出され導かれるような印象にもなります。若い指揮者・作曲家のジュリアンとヴィクトリアのいい雰囲気も序盤から描写されるので、映画版以上に『オペラ座』っぽく見えます(ジュリアンがラウル枠)。映画版より三角関係的で、クーパーの方が映画版よりヴィクトリア個人への恋愛/執着があるように私には見えました。

 

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↓こちらは最後までのあらすじが書かれていますのでご了解の上で。

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映画『赤い靴』

元の映画版の話を挟みます。後から再度原作映画も観たら、映画版のパスティーシュ/翻案や引用もすごかったんだなと認識を新たにしました。これはマシュー・ボーンが好きだと思うはず。ボーンに影響を与えた映画というのがわかる気がします。

 

実は私が最初に『赤い靴』を観たのは、この作品を引用していた『デブラ・ウィンガーを探して』を観た直後だったこともあり、その時は、ヴィクトリアが女性ならではの芸術(仕事)か愛かに引き裂かれる話に思えました。『デブラ・ウィンガーを探して』は、女性が仕事(芸術)と家庭の選択を迫られたり、ハリウッドで女性が華としてしか評価されなかったりする状況を問題提起したドキュメンタリーと言ってよいと思います。この文脈で言えば、ヴィクトリアが芸術を選んでも、支配的男性にとってのミューズというダブルバインドかもしれないと『デブラ・ウィンガー』は示唆する感じさえします。

 

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それもあって……ある意味間抜けな話ですが……最初に観た時には、アンデルセン『赤い靴』の翻案ということはすっかり意識から飛んでしまっていまして。上の記事内で言われるように、女性が選択を迫られる話として見ても刺さる人にはすごく刺さる映画だと思いますし、特に制作年代を考えればその視点が評価できるものだと思います。でも最後の展開は、私は好きじゃなかったんですよね。ご存知の方も多いでしょうがネタバレを避けて結末の話は注の形で書きます。*1 アンデルセンの翻案ならこの結末が必須なのにその意識が抜けていたんです。ディアギレフとニジンスキーの置き換えということも全然わかっていませんでした。アンデルセンを翻案し、ニジンスキーと置き換えたストーリーと考えるとこれは本当にすごいなと改めて思いました。

 


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映画レルモントフ役のアントン・ウォルブルックは、序盤はクーパーよりもう少しフランクな雰囲気ですが、プリマバレリーナのボロンスカヤの結婚話あたりから芸術至上主義の厳しく偏屈な面を見せます。映画版では前プリマのボロンスカヤは結婚を理由にバレエ団を辞めさせられる展開です。レルモントフは、底にはヴィクトリアへの想いもありそうに見えるものの、芸術一筋でなければ一流でないと発言したり、昔ながらの“ダンサーでいたければ結婚は諦めろ”という価値観の体現者に見えます。この辺も、ニジンスキーと恋人関係にあったとされる(というより現代的視点からは性的搾取と考えるべきかもしれませんが)ディアギレフへの連想を私がしにくくなった理由かもしれません。

 

改めて観たらボロンスカヤを辞めさせる展開と『ジゼル』の第2幕との被せ方もすごいと思いました。ウィリー役のヴィクトリアが舞台に出る時に、愛と芸術の両方を選ぶことはできないみたいなことをレルモントフが彼女に警告するわけですよ。舞台では、ウィリー達からアルブレヒトを庇うジゼル(愛を選ぼうとするジゼル)の場面で、ジゼルを踊っているのは結婚のためにバレエ団を辞めさせられることになるボロンスカヤ。レルモントフがミルタのように、ここで踊るか愛を選ぶかと迫っていることになります。

 

『赤い靴』の成功を喜び、世界的なダンサーにしようとヴィクトリアに語るレルモントフの場面の後には『コッペリア』も出てきます。ヴィクトリアの活躍を示すバレエシーンの1つとして『奇妙な店』『レ・シルフィード』と共に出てくるのに深読みしすぎかもしれませんが、『コッペリア』も全体のストーリーに被るような気もします。『コッペリア』では、人形師が自分の理想の人形に命を吹き込こもうとし、人形が踊り出したと喜んだら、実はそれは人形の振りをした娘スワニルダで、彼女は恋人フランツと結ばれ人形は壊れてしまいます。実際に物語との重ね合わせがあるかどうかはわかりませんが、いずれにしても、これら3作はバレエ・リュスの作品で、またヴィクトリア役のモイラ・シアラーや振付のレオニード・マシーンと縁もあるものだそうです。

 

また、映画版では『白鳥の湖』のオデットを踊るヴィクトリアを観てレルモントフは彼女の才能を認めます。『白鳥の湖』はバレエの代名詞のようなものなのでこれも考えすぎかもしれませんが、映画の終盤からすれば、オデットに魅入られ自分のものにしておきたいロットバルトとレルモントフが重なるようにも思えます。ジークフリートとしてのジュリアンを去らせ、踊り続けるのだと囁くレルモントフの言葉は呪いのようにも聞こえます。

 

白鳥の湖』も含めて劇中バレエは全てバレエ・リュス関連作品だそうです。ボーン版の方では、映画でも出てくる『レ・シルフィード』が序盤にあり、『ジゼル』が出てこない代わりに劇中バレエ『赤い靴』にその振りやニュアンスが入っている感じがありました。『青列車』は割合わかりやすく、他に出てきたのは『牧神の午後』パロディでしょうか(牧神+『ラ・バヤデール』のブロンズ・アイドル+『韃靼人の踊り』ぽく見えました)、ジャン・コクトー風の背景になっています。

 

マシュー・ボーンの『赤い靴』

映画版とボーン版を比較して、あくまで相対的にではありますが、映画版レルモントフがヴィクトリアにバレエへの専念を要求し彼自身も芸術を選んだ狂気のようなものを感じさせるとすれば*2、ボーン版のクーパーのレルモントフは、ヴィクトリアの才能を愛しているのかヴィクトリア本人を愛しているのかわからなくなっている感じがします。あるいは両者ないまぜで、彼女が去ったことを苦しんでいる気がします。

 

ボーン版では、プリマのボロンスカヤの結婚エピソードはなく、ボロンスカヤが怪我をしたためにヴィクトリアが抜擢される話になっていて、結婚(愛)かバレエかの選択肢がヴィクトリアの恋愛前に明確に示される映画とは違っています。劇中バレエ『赤い靴』の成功後、祝福しようとしたレルモントフに気づかず、ダンサーと指揮者として(も)感激で抱きしめ合うヴィクトリアとジュリアンと、嫉妬するかのように2人を見つめるレルモントフが対比されます。バレエ団のパーティー場面でも、ヴィクトリアとジュリアンが愛を深める一方で、レルモントフはボロンスカヤに誘われて踊っても気が晴れず2人が気になって仕方がない様子が描写されます。台詞がないところを映画よりわかりやすくしたということかもしれませんが、映画版よりヴィクトリア自身への想いが強調されている気がします。

 

それは劇中バレエ『赤い靴』でも感じます。ボーン版での劇中バレエ『赤い靴』は、映画オリジナル版を踏まえた振付や仕掛けが散りばめられている一方、娘に靴を渡す人物は映画版のコッペリウスを怪奇的にしたような不気味な職人ではなく、レルモントフ擬似的な人物にされています。物語全体と劇中バレエが映画以上に重なる形にされているということです。そして、ボーン版の靴屋は娘を誘惑するかのようで、それはバレエ(芸術)への誘惑とも取れる一方、赤い靴の娘・彼女を慕う青年・靴屋のパ・ド・トロワには、そこにとどまらない三角関係的ニュアンスを感じます。後半では劇中バレエと現実が重ねられ、靴屋とレルモントフ、青年とジュリアンが時々に入れ替わり、ヴィクトリア・レルモントフ・ジュリアンのパ・ド・トロワにもなります。その交差によってヴィクトリアの錯乱、または舞台自体が彼女の夢想・幻覚だろうことが示唆されますが、やはり映画以上にレルモントフに恋愛モードが入る気がするのです。(プリマ交替理由やパ・ド・トロワは、やはり『オペラ座の怪人』っぽい雰囲気も醸します。)

 

最初の引用記事にあったように、ボーンが提示した今作のテーマが「愛か芸術か」であるなら、ボーン版は、ヴィクトリアだけでなく、レルモントフもジュリアンも、その葛藤があるのかもしれません

 

ボーン版では、ジュリアンも、映画とは違って成功せず、ヴィクトリアと共に場末の劇場で演奏するしかない状況に置かれます。夜中にジュリアンがピアノを弾くシーンは、映画版と衣装も同じでありながら全く違う作りになっていました。

 

映画版では作曲家として成功したジュリアンが仕事に没頭するかのように夜中までピアノを弾いています。別室で目覚めたヴィクトリアはそっと赤い靴を取り出し撫でてから元に仕舞って、ピアノを弾くジュリアンのところへ行って邪魔にならない程度に膝にもたれます。女性が妻になったからとキャリアを諦め、その気持ちを言えないまま、でも愛があるからと自分に言い聞かせている感じ(泣)。

 

ボーン版では自分の芸術性を活かせない仕事に辟易したジュリアンが、それに我慢できず夜中にピアノを弾き、ヴィクトリアが楽譜を取り上げて彼を抱きしめると、演奏を止められたジュリアンは苛立ち喧嘩になっています。愛はあっても2人ともが仕事・芸術への不満を抱え、こんなはずではなかったと思っているのです。ヴィクトリアもここで赤い靴を履いてジュリアンに思いの丈と怒りをぶつけます。ポワントのリボンを結ばないまま踊るのが迫力を生みます(踊るの大変だろうなと思いますが)。ボーン版は“女性の”選択とは違う話になっていると言えます。

 

そしてこちらのヴィクトリアは、映画版とは異なり自分からレルモントフの元に行きます。自分で決意して舞台に出るシークエンスもあります。ただ、実際に踊るうちに現実との境が曖昧になって踊りが止まらなくなり、それが彼女の恐怖または錯乱なのか、舞台で踊ったこと自体、彼女の夢想や幻覚だったのかという展開になるのは上で書いた通りです。ボーン版は劇中バレエの最後と物語自体の最後が一層重なる終幕になっています。

 

アダム・クーパー企画だったこともあって、主役2人のことが最後になってしまいました。上でリンクした記事の1つはダンサーに辛口でしたが、アシュリー・ショーのヴィクトリアは、映画版と重なる華やかさと危うさ、加えて特にボーン版ヴィクトリアがもつ強さがあってよかったです。ドミニク・ノースのジュリアンは、映画版以上に気の置けない同級生感がありました。この親しげで優しい雰囲気や、友達から恋人に移行するような空気感ってノースの持ち味だと思うんですよね。

 

他キャストを観ていないので何とも言えないところもありますが、この2人の色合いで、ヴィクトリアとジュリアンが映画より対等な感じに見えたことも、ジュリアンとレルモントフの人物像がもっと対比的になったことも、私としてはいい配役に思えました。

 

オリジナルの映画版の方はアマゾン・プライムで配信されています。

 

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Le_Train_Bleu_1924.jpg
↑本物の『青列車』のダンサーとジャン・コクトー

*1:ヴィクトリアはジュリアンとの愛には満たされつつも、以前のようには活躍できないでいるところに、やはり彼女の才能を惜しむレルモントフが声をかけ再び『赤い靴』の主役を踊ることになります。レルモントフはジュリアンに去るように言い、ヴィクトリアに君は踊り続けるのだと囁きます。舞台に向かうかに見えたヴィクトリアは錯乱し、汽車に乗ろうとするジュリアンを追ってそこに身を投げ、瀕死の状態でジュリアンに「赤い靴を脱がして」と言う結末です。選択を迫ることが彼女をそこまで追い詰めたという描き方とも言えますし、『デブラ・ウィンガーを探して』の紹介記事にあるように、そこにおそらく共感したり感銘した人達も多かったとは思います。ですが、選択を迫られたヴィクトリアが錯乱して死ぬのも、生き甲斐だった踊りを呪いのようにも感じ、特に恋人に彼女の方から靴を脱がしてと言うのも個人的には一寸だめだったんですよね。本文に書いたように、劇中バレエだけでなく映画全体の話自体もアンデルセン翻案だと意識しなかったことが大きいです。翻案としてはこれしかないし、素晴らしく秀逸だと今となっては思います。彼女の錯乱についても、観た時には唐突感もあったし女性の脆弱性が強調されているように思えましたが、女性の脆弱性というよりニジンスキーとの類比だったかとも思います。投身についても、もしかしたら『白鳥の湖』で身を投げるオデットのオマージュかもしれません。

*2:映画版の最後はヴィクトリアが亡くなったにもかかわらず、彼女がいない『赤い靴』を上演しその舞台を見つめるレルモントフで終わります。レルモントフが主役でもあったと思わせる結末です。