『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

英国ロイヤル・バレエ『白鳥の湖』(英国ロイヤル・オペラ・ハウスシネマシーズン)感想

リアム・スカーレット振付。ローレン・カスバートソンのオデット/オディール。ウィリアム・ブレイスウェルのジークフリート王子。映画館上映版です。

 

シェイクスピアではなく『薔薇王』とも直接関連はしませんが、以前、新国立劇場バレエのピーター・ライト版『白鳥の湖』と英国ロイヤル・バレエのスカーレット版の比較のような記事を書き、そこでスカーレット版のシビアさや暗さを述べました。ですが、カスバートソンのオデット、ブレイスウェルのジークフリート王子で観たら、むしろ救いと愛のある終幕に思え、エンディングの印象がかなり違って驚いたので、感想記事を加えようと思いました。今回、スカーレット版の面白さがようやくわかったような気もします。

 

王妃(=母親)と王子の距離が微妙で、きょうだいでの扱いが違うので王子が寂しく感じていたり、悪魔ロットバルトが宮廷に入り込んで王国を狙う設定など、スカーレット版は一寸『薔薇王』っぽいかも(←ごめんなさい、この辺は無理に盛っています菅野文先生のお好きなマシュー・ボーン版『白鳥の湖』とテイストが似ているという声はあり、その辺も今まではわからなかったのですが、確かにボーン版と王子のキャラや母親との関係が似ているかもしれないと思いました。

 

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なぜ以前観た時とそこまで印象が違うのかと考えると、スカーレット版の第4幕=終幕が複雑に入り組んだ、ある意味トリッキーな構成にもなっていて、どこに注目するかで見え方が変わりそうだというのが1つ。それと関連しますが、そのためダンサーによってもどう見えるかの振れ幅が大きくなりそうというのがもう1つです。

 

twitterでの評判を見るにつけカスバートソンのオデットがどうしても観たくなって出かけて(宣伝効果の大きさと乗せられやすい私の体質を実感しました)、そこはもう期待通りでしたが、それに加えてブレイスウェルの王子を観られて本当によかったです。ブレイスウェルの王子によって、私はスカーレット版の第1幕からの特徴に気づくことができた気がします。他記事でも、“それまでぼーっと読んだり観たりしていた”としばしば書いていて、そんなうっかり体質で気づかなかったせいはありますが、今回見えたことがあると思いました。

 

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スカーレット版は終幕の第4幕がとても特徴的だと思いますし、今回はそこでの印象が大きく違ったので、順序は悪いですがそこから書きます。記事としてもそこをメインにしているつもりですが、『白鳥』の結末はそれぞれ違うので、そのネタバレを避けたい方は下の画像をクリックして下さい。それ以外のキャストの話とかに飛びます。

 

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第4幕

スカーレット版は、ジークフリート王子が倒れている間にオデットが1人で死に、人間の姿に戻ったオデットの亡骸を王子が抱きかかえ、その背景に白鳥姿のオデットが浮かび上がるというエンディングです。

 

上リンク記事に書いた高田茜さんオデット、フェデリコ・ボネッリの王子で観た時は、“オデットを1人で死なせてしまうのか”と思い、そこで比べたライト版の王子の後追いエンドの方に愛を感じました。ですが、今回は、オデットは自分の死によって愛する王子を救ったのだろうと思え、仮にブレイスウェルの王子が後を追ったら、カスバートソンのオデットはむしろ報われない気がしました。これでよかったんだと思える結末で、白鳥姿のオデットも彼を見守っているようにも思えます。印象が逆と言ってもよいくらいです。

 

上で書いたように、そんな異なる印象を与える仕掛けがスカーレット版にはあるように思えてきました。私の場合は、観た回数とキャストによる相乗効果かと思います。

 

人間に戻ったオデットを王子が抱きかかえるところはブルメイステル版に似ており、プロローグで人間のオデットを白鳥に変える場面があるところも同様です。おそらくそれを踏襲していると思います。そちらもネタバレしてすみませんが、ブルメイステル版は王子の腕の中で人間に戻ったオデットが目を覚ますというハッピーエンドです。最初に観た時の私の正直な感想は“ああブルメイステル版エンドかー” → “え、ちょっ待、オデット目覚めないし白鳥姿のオデットが背景に浮かんできちゃった、王子嘆いているし、ええー!?”って感じでした。ブルメイステル版的ハッピーエンドでも、比較的よくある王子の後追いエンドでもない、予想外の結末とオデット1人の死という衝撃が来ます。勝手な推測ではあるものの、予想を覆す狙いはある程度あったんじゃないかと思います。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが、よく知られた作品を、演出によって結末を変えてみせるのと似たような感じです。

 

更に、第4幕で謝罪する王子をオデットはすぐには許さず、心を閉じてしまう振付がおそらく明確になされていると思います。パ・ド・ドゥを通じて最後には抱き合い愛を確認しますが、王子の過失と信頼喪失もそれなりに印象に残ります。こちらと最終部の衝撃が重なると、取り返しのつかなさ、王子の後悔、悲劇が増幅される感があります。そして私はこれまでそのイメージを持っていました。

 

ですが、スカーレット版自体を複数回観るとオデットが1人で死ぬ結末はわかっているので、その衝撃がないと『ジゼル』的エンドにも思えてきます。ロットバルトが『ジゼル』のミルタで(←ミルタごめんね、異論は認めます)、白鳥達がウィリー。『ジゼル』ではミルタとウィリー達はアルブレヒトを呪い殺そうとしますが、ジゼルは愛を示して彼を守ります。

 

スカーレット版は、オデットと王子が愛を確認して抱き合った後、ロットバルトが王子の王国を奪うことが示され、白鳥達がオデットと王子を引き離すようにそれぞれを取り囲むように見える場面もあり*1、オデットが王子をロットバルトから庇う仕草があります。なんとなくですが、オデットは王子や彼の王国を犠牲にすれば、白鳥のままではあっても助かる設定に思われ、白鳥達も王子を犠牲にしてもオデットを守りたいようにも見えます。過去記事で『人魚姫』的と書いたのはこの辺を感じたからでした。スカーレット版ジークフリート王子はアルブレヒト同様倒れていて(『ジゼル』ではジゼルによって目覚めたアルブレヒトと最後に少しパ・ド・ドゥがあるものの)、ジゼルは消えてアルブレヒトが残されます。

 

ただ、『ジゼル』では2人のパ・ド・ドゥでじっくり愛と許しが描かれ、ジゼルがアルブレヒトの救済を求める振付もよくわかる一方、スカーレット版『白鳥』はその辺は短くはっきりはしません。

 

どこに注目するかで見え方が異なり、もしかしたら多様な表現がしやすい構成になっているように思いました。

 

キャストの特徴と第2幕:オデットと王子

キャストとの関連でいえば、以前観た高田さんオデットは、気高くはありつつ迷い悩む女性の感があり、第2幕でボネッリの王子は、そのオデットの気持ちに寄り添い迷いを解くように見え、彼女が信頼を寄せたい、どちらかと言えば頼らせてくれそうな存在に思えます(その分裏切り感が倍増という薔薇ステみたいな)。ボネッリについては、そもそもジークフリード王子より『冬物語』のおおらかなポリクシニーズ王の時の方に断然魅力を感じた私なので、今から思うと繊細な場面を捨象して包容力が見える場面に注目してしまったせいはありそうです。

 

ブレイスウェルの王子は、王位継承が不安になるほど繊細で頼りなくて、しかもそこがとても魅力的でしたカスバートソンのオデットは儚げでもある一方、成熟した大人で、白鳥達を守る女王でもあると感じます。オデットと王子の、守る/守られるの関係性が両ペアでは異なるように思うのです。ええ、いつものように妄想入ってきているんですが(上の動画でカスバートソンが語っていることと少し違う気もするし)、カスバートソンのオデットは彼女に素直に一途な愛を向ける王子の心には惹かれつつも、白鳥達のことも含めて王子に賭けて大丈夫か、ロットバルトの呪いに王子を巻き込んでいいのか、自分の本当の感情は抑制している感じ。王子の方はひたすらオデットに夢中で、それで大丈夫と思っているようで、その辺でも椿姫的な感じがしました。カスバートソンはベテランですが、大人の年上感については、実年齢ではなくキャラクターの雰囲気だと思います。『ザ・チェリスト』でのカスバートソンはパートナーが年下でも大人・年上感はせず、『冬物語』ではパートナーが年上でもカスバートソンに成熟を感じるので。

 

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オデットのカスバートソンはこの『冬物語』のハーマイオニーの大人っぽい感じなんですよねー。でもこちらは2014年。

 

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『ザ・チェリスト』は2020年で、こちらのプリンシパル2人はブレイスウェルとあまり年齢が変わらない(マルセリーノ・サンベはブレイスウェルより年下)ですが、カスバートソンに年上感はありません。

 

スカーレット版のジークフリート王子

スカーレット版の王子は、考えてみるとやはり頼りないキャラとして振り付けられているように思います。その最大のものが最終場面ですが、それ以外にも舞踏会に遅刻したり、妃候補の強気な姫達に押され気味で(スカーレット版は姫達が強そう)、母親にもオデットのことをなかなか言い出せないかと思えば、姫達の前で“選べません、この話はなかったことに”的なことを言い出して場をざわつかせたり……。ボーン版やノイマイヤー版の『白鳥』だと王子のダメさが強調されていますよね(そこがいいんですけど)。それ寄りのキャラに思えます。ブレイスウェルの王子は、そんな場面が自然で説得力があり、スカーレット版の特徴を最大限に引き出している、あるいは彼の持ち味がそれにとても合っているように思えました。ムンタギロフやボネッリも同じ振付なのに、そんなに情けなく見えないので、この辺スルーしたり別解釈していた気がします。

 

なんだか私自身が、オディールに時々違和感を感じつつもオデットだと信じちゃう王子のようですね、彼らは割合正統派王子に見えていました。

 

第3幕:オディールと王子

カスバートソンはオディールになると、並べば彼女を王妃に選んで当然と思わせる女王感があります。強そうな姫達に対してさえ、「あらあら、お嬢さん方残念ね」みたいな圧倒的存在感。オデットの女王性とは全く異なる質のものですがやはり女王を感じるんですよね。カスバートソンのオディールもこの版のよさが生きると思いました。女王様的存在感はマリアネラ・ヌニュスのオディールにもありました。

 

こんなオディールなら、ブレイスウェルの王子を欺くのは赤子の手をひねるようなものだと思えてきます。それでもボネッリやムンタギロフより、ブレイスウェルは時々違和感を出していた気がします(これは単にカメラの抜き方かもしれず、ボネッリやムンタギロフのその表情が映っていなかった可能性はあります)。白鳥が背景に出るシーンの後、オディールがオデットのように振舞うことでその違和感を払拭した感じがしました。

 

高田さんオディールは王子を騙すのを楽しむような悪魔・悪女の雰囲気が強めな印象で、オデットとかなり別人感があります。この辺が“なぜわからなかったんだ王子〜”と、オデットが信頼した王子を責めたい気持ちを強めたかもしれません。しかも、高田さんは王子の頬をすっと撫でるところなんかも艶やかで、ボネッリも熱烈に抱きしめる感があるので3組の中では一番セクシーな気もします。第4幕でのオデットの時も高田さんには官能的なところを感じ、その辺がリアルな女性としての複雑な感情を想像させたのかもしれません。

 

第1幕の王子

オデットと王子の関係だけでなく、スカーレット版の第1幕の特徴やベンノの位置づけもブレイスウェルの王子によって私は理解できた気がしました。

 

第1幕での、ロットバルトが家臣か家庭教師的に宮廷に入り込んでいるというわかりやすい設定以外での特徴は以下の感じです。
・従者で友人のベンノがかなりメインで踊る。王子とベンノの仲がよい。
・パ・ド・トロワの女性は王子の妹2人(こちらもベンノが踊る)。
・王子はあまり踊らない。

 

でも、ロイヤルの1つ前のアンソニー・ダウエル版でも王子はあまり踊りませんし、装置も衣装も割合似ていて、ロットバルトの設定以外はあまり前の版と変わらない気がしていたんです。ですが、ブレイスウェルの王子だと、あまり表に立つのが好きでない王子に代わってベンノが対応したり彼が王子を気遣っている感じがします。王子のための祝宴なのに場面によってはブレイスウェルはやや居心地が悪そうにすら見えました。更にプティパ+イワーノフ版であれば(どの辺までが元のプティパ+イワーノフ版かあまりわかっていませんが)多分主役の王子が踊る部分の大半をベンノが踊っています。ベンノに何かと頼ってしまう王子に見え、ベンノの位置づけも王子の繊細なキャラクターに繋がるのかと感じました

 

今回はベンノが日本出身のアクリ瑠嘉さんで、それで目が行ったこともありますし、アクリ・ベンノの暖かい佇まいによってもこの辺が認識できたところはありますが、もしボネッリとの組み合わせなら王子を庇ってフォローするベンノには見えなかったかもしれません。ムンタギロフとボネッリの王子で観た時には、王子がそこまで踊らないのも高貴な身分だからで、細かい様々はベンノに「任せている」ように思え、私はこの特徴があまりピンと来ていませんでした。

 

王子と母親=王妃との関係もボーン版に近い拗れもありそうで、パ・ド・トロワの女性が妹達なのも、王子と母親の微妙な関係を示す構図になっているのがようやくわかりました。王妃は王子に対してはやや距離を置きながら妹達には素直に愛情を示しており(王位継承者の長男には厳しめという『薔薇王』とは異なるちゃんとした理由がありそうですが)、王子と妹達の仲はよいので兄の気分を上げようと妹達が踊りに誘うのに気が乗らない王子はベンノに話を振るという流れです。プティパ版などで側近・友人的な女性が王子と踊る場合は、人気があって憧れられる王子や妃選び秒読み的なニュアンスが出ますが、それとは違っているんですね。

 

母親とのシーンでも、ブレイスウェルの王子は弓をもらっては母親が自分を気にかけてくれたことを喜び、結婚相手を選ぶよう言われて落ち込みと、感情の起伏がわかりやすく、それが未熟さを体現するかのようです。

 

当たり前なのでしょうが、ダンサーの違いも、そしてキャストの組み合わせも印象を変えるものですね。ヌニュス・オデットや、高田さんオデットのバージョンも繰り返して観ていたりもしたのに、後から改めて比べてみるとまた気づいたところもありました。私がぼんやりしているせいでもありますが、別キャストで複数回観てわかることがあると思いました。

 

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*1:注まで使ってくどくどしてますが、白鳥達が2人を引き離すような場面は、グリゴローヴィチ版にもあります。ですが、これはロットバルトの眷属の黒鳥達が2人の間に割って入る感じなので、振付は似ていても意味は違う気がします。たまたま観た中での比較ですが、この辺も意味を変えつつ有名版のオマージュはあるのかもしれません。