『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ITA、ロバート・アイク脚本・演出『ザ・ドクター』感想

インターナショナル・シアター・アムステルダム(ITA)、2021年上演、2024年5月25日再配信。

 

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trailerです。


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ロバート・アイク演出の『ハムレット』、翻案・演出の『オイディプス』がとても印象的で、翻訳(『悲劇喜劇』2021年11月号、小田島恒志訳)があることもわかったので、2週間前ぐらい前に再配信を観ました。日本でも栗山民也演出・大竹しのぶ主演で上演されていたのですね。それだけ注目作品だったということなのでしょう。

 

stage.parco.jp

 

人種、宗教、性別、性的指向等のアイデンティティーをどう扱うかというヒリヒリするような課題が、主題になるだけでなく、演劇の実験のように示される作品でした。とても現代的な課題で、登場人物達のアイデンティティーのありようもとても今日的ですが、1912年に発表されたアルトゥール・シュニッツラーベルナルディ教授』の翻案とのことです。

 

上のITAのサイトにも日本上演のサイトにもストーリー紹介があり、ITAの方は相当にネタバレ的なところまで書かれていて、日本上演のサイトは、アイデンティティーが課題になるところはネタバレを避けて展開の大筋を示しています。これは日本上演のサイトの方がよいように思いました。ITAのサイトでは、“Written and Directed by Roert Icke”の項目で、この実験的な配役・脚本の意図についても書かれています。

 

ポリティカル・コレクトネス戯画的な場面もあるのですが、演出上の指示(この記事では画像の下で書きます)を考えると陳腐化されがちなところも含めての問題提起かと思いました。特定のアイデンティティーを考慮すること/しないことのジレンマが局面局面で示されると共に、想定したアイデンティティーや前提が後から覆ってきます。

 

以下の動画でのアイクの解説によれば、元々はユダヤ教カトリック、医学と信仰との対立という話を、今日の状況ではそうした対立はより多元的(plural)で細分的(fragmental)になっているという問題提起から、全く別の話にしたとのことでした。それでもどの程度が元の話にあるのか興味深く感じます。

 


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事前にストーリーを知らずに観たくて、序盤だけ目を通して、あとは同時進行で翻訳戯曲を追いながら観たので、観ているのか戯曲を読んでいるのかわからないぐらいの視聴になってしまったものの、スリリングな展開は味わえました(戯曲を読んでもそう感じたのか、観たからそう感じたのかがわかりませんが)。社会派的な内容のようでありつつ、終盤で主人公のとても私的な心情に触れるような展開になります。そして、そこで私が受けた感覚は『異人たち』に近いものがありました。肌合い自体は全く違います。『異人たち』の方は、ひっそりと孤独に暮らす男性シナリオライターが、亡くなった両親に再会する話、『ザ・ドクター』の方は医療研究所での事件が社会的に問題視され、研究所運営、政治的駆け引きの対応を迫られる話です。こちらの主人公は強固な職業倫理をもつ医師で、研究所の所長を務め威圧感さえある女性です。ではあるのですが、どちらもパーソナルな感覚にズシンと来て、自分でも意外なことに、動揺が強かったのは『異人たち』、より泣いたのは『ザ・ドクター』でした。『ハムレット』で感激した演出のロバート・アイクと、主演のアンドリュー・スコットの作品をたまたま近い時期に観られて、そこに(私が勝手にですが)近いものを感じると同時に、アグレッシブな女性主人公の社会派的な話と、パッシブな男性主人公の家族の話になっていたのも面白く感じました。私が観た時期が被っただけで、制作・上演時期が被った訳ではないんですけれどね。初演ではジュリエット・スティーヴンソン(『ハムレット』のガートルード)が主人公役で、上の動画の話からすると、元々は彼女の主演作品のための宛て書きだったのかもしれません。

 

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ITAでのヤニ・ゴスリンガも、有能で自分の判断に自信があり信念を曲げず高飛車にも強情にも見えるこの主人公像にとてもはまっていました。そして、そんな彼女に段々共感できるようにされていたと思います。アイデンティティーを問う作品なので、こういうことを書くのもいいのか迷うくらいですが、動画やキャスト表で比較するとITAは出演者の女性率が一番高く(男性は2名のみ)、でも演出上意図された不協和以外では全く自然なのもよかったです。演出上の不協和の点で言えば、事前に脚本での指示を読んでいたにもかかわらず、少なくとも私は、結構ハードルが高いなと思いましたが。

 

キャスト表や書誌情報を挟んで、内容について相当にネタバレが入る話を書きます。

 

CAST
Ruth Wolff — Janni Goslinga
Paul Menken — Aus Greidanus jr.
Rogier Hartman — Maria Kraakman
Sam — Ilke Paddenburg   
Priest, father — Bart Slegers   
Charlie — Evrim Akyigit   
Esther Colland — Joy Delima   
Intern — Sam Ghilane   
Jemima Flint — Dewi Reijs   
Rebecca Roberts — Iris Amber Stenger   
Brian Cyprian — Urmie Plein  

 

Photo by USGS on Unsplash

 

リンク先のあらすじにあるように、生死の境にいる患者少女に付き添いたいというカトリック神父の申し出を、主人公ルースは医師として拒否します。揉めている間に少女が亡くなり、神父がこれを問題として公にしたため一大騒動になってしまいます。脚本には、この神父は白人俳優が演じると指定があり、後からの展開や台詞で彼が黒人であったことがわかります。訳註には「イギリス上演の際の指定。観客が見た目で黒人と分かってしまうと後々の問題提起が弱まるためと思われる」と書かれています。ルースはこの場面で神父を人種アイデンティティーで見ていなかったけれど、後から人種差別や、人種と宗教が絡む対立として争点化されたということかもしれないと想像します。ルースがユダヤ人であることも後からの台詞でわかります。但し彼女は、自分はユダヤ教徒でなく宗教は信じていないと述べ、ユダヤ人であるためにキリスト教と対立させられることが不本意であることも示されます。

 

ルースにとって、この場で一番重要だったのは彼が神父であることでしょう。神父は確かに信者の両親の依頼で駆けつけた訳ですが、少女の方は意識が朦朧とし自分が死につつある認識もない、そのため臨終の典礼を望んでいるとは思えず(しかも教会に来たことはあっても信者とまでは言えない)、そのためルースは、少女が神父を見たらパニックになり安らかな死を妨げると言います。加えて、少女は自分で行った中絶で敗血症になってもいて、更にパニックになる要因はありました。医療的判断か(権限はルースにある)、信仰か(少女がカトリック信者かは微妙)、この状況で患者本人に判断をさせるか、未成年の子供として医師が判断するか、この場の文脈だけでも複雑です。そこに更に人種や性別の文脈も絡んできます。神父の方は、この場面で別の医師が「どうかしたのか」と声をかけた時に、「〔ルースの〕指導教官の方ですか」「上の人と話がしたい」と言っており、性別には全く言及されないものの、ルースが女性なので所長と見ていないとも想像されるやりとりがあります*1。この場面や会話の作りが本当にうまくて、神父がそう言ったのは、この状況に「どうかしたのか」と声がけできるのがルースより立場の上の人に見えたからとも思えます(普通、上司が対応している時にこういう行動はしないはず)。ルース自身もこの場面では性別に言及しませんが、性差別的文脈が想定されます。神父本人がどう見ていたかではない文脈があることが同時に示唆されている訳です。すごい作りです。(更に後の場面で、男性医師がルースと同じ態度を取ったら問題になったかという台詞があったり、臨終の典礼については患者本人が決めるべきと言った医師をルースは「男の考え方」と批判したりしています。)

 

神父をめぐっては話はかなり詳細に提示され、この配役の仕掛けが効いてくると思います(それでも主題自体はかなり複雑な気がしますが)。ここは戯曲を読みながらだと、仕掛けが事前にわかってしまって残念でした。後から“ああ、そうか”と思いたかったところですね。

 

戯曲ではそれ以外でも、「俳優のアイデンティティーは役柄のそれとは完全にー少なくとも1点においてはー一致しないようにするべきである」「物語から明らかになるまでは、演技はその謎を保つべきである」と指定されています。この辺は難しいですね、その指定を事前に読んでいたためか混乱まではしなかったものの(あるいは逆に戯曲を読みながらというハンデが私にあったためか)、その場で観る作品としては仕掛けが複雑すぎる気もしました。更にネタバレになるものの、所長代理になるハートマン〔戯曲ハーディマン〕は男性で、若手医師役については、戯曲のト書きに彼と彼女両方の表記があるそうです(これは訳註あり)が、おそらくは男性だろうと思われます。ITAでは両方が女性キャスト、日本の栗山版はハーディマンが男性キャストでした。ITAは観客を信頼した挑戦的なキャスト、栗山版は観客にそこまで負荷をかけずここぞという時の演出効果を狙ったキャストだと思いました(もう1,2名は女性キャストを増やしてもいいかもという気もしますが)。ITA版は、初演の写真と比較してもハードルを上げたかなという気もします。人種についても、更に、医師のうち1名は黒人ルーツがあるが見た目は白人、1人は見た目も黒人の設定で、後者の役もITAでは白人男性が演じていましたが、その台詞が言われた時にわかったか、後からもう一度戯曲を読んだ時に気づいたか(そもそもその台詞が今回あったかすら)、私はあまり覚えていないのです。前者は逆に確か黒人キャストだったと思うのですが、そこまで複雑になっていると異化効果自体は薄れるようにも思いました。

 

(↓初演時の記事)

www.cityam.com

 

物語の内容の方に話を戻します。主人公のルースは「中立」を指向し、「私のアイデンティティーは問題ではありません。私、グループ分けはしないので。」と言い、アイデンティティーへのコミットを避けようとしています。加えて、その案件に関係のない(はずの)アイデンティティーが持ち出される弊害も、今作には十分描かれています。一方、ルースもまたアイデンティティーから自由でなくコミットせざるを得ないこと、その案件に然々のアイデンティティーは関係ないとする判断もポリティクスであることも描かれていると思います。更に、ITAの“Written and Directed by Roert Icke”にも少し書かれている通り、人の死や記憶が失われるアルツハイマーについても、アイデンティティーと絡めて描かれます。アイデンティティーから自由になることがよいことであるのか、死や、アルツハイマーによる記憶や人格の喪失は果たしてアイデンティティーを失うものであるのか……。

 

終盤に置かれたルースと神父との対話は、最初の場面と打って変わって静謐で穏やかで、個人的な心情を打ち明ける誠意のあるものになっています。神父は「あなたも私も、ある1つの理念をもったーー大きな集団のうちの使命を帯びた団体のーー代表者です」と言いつつ、その代表者として公聴会では言えなかった、“あの場では私達2人ともああするしかなかっただろう”という考えをルースに告げます。組織を代表する立場といった戦略性は信仰と沿わないように思え、ルースの医療に対する態度の方が打算がなく思えるほどですが、神父はそのことをむしろここでは誠実に開陳しています。2人の考えはそれでも異なるものでしたが、その対話は、「代表者」の立場からでなく、他の文脈を介入させない今この場を大事にしたものでした。その場でルースは、おそらく初めて、パートナーのチャーリーがアルツハイマーで記憶を失うことに耐えられず自殺したことを語ります。(上では書きませんでしたが、ストーリーと関係性も少し『異人たち』に似ているところがあります。亡くなったチャーリーが普通の人のように登場していたり、同性パートナーだろうと思われたり、長期間のパートナーと思われる点は異なりますが2人の私生活=レズビアンカップルであることをルースは周囲に明かしていなかったり。)

 

チャーリーは、医師であるルースに過失致死の疑いがかからないようルースの不在時に自殺を遂げ、ルースはチャーリーのその思いを察して医師として判断し、敢えてチャーリーの部屋に入らず通報しました。神父は部屋に入りたかったであろうルースの心情を慮って「でも人間でもある」と言いますが、ルースは「人間である前に医師だと思っています」と返します。それを幻影のチャーリーが「そんなこと言うもんじゃない」と否定すると、ルースは「あなただって、自殺なんてするもんじゃなかった」「そこにいたかった」とチャーリーに告げます。死をめぐって部屋に入る入らない、自分や相手を誰として判断するのかがそこでもジレンマになっていたことがわかります。今作は、最初と最後に通報場面があり、そこでルースの「どっち どっちかしら」の台詞がきています。字義的には救急か警察かの問いかけでしょうが、アイデンティティーについての問い、しかも個人的な深い思いが関わる問いが込められているように思えます。

*1:ITAではこの別の医師も女性が演じているのですが、脚本では男性言葉なので別医師が男性だとこの時点でわかるのです。