『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

17巻最終話(78話) 王冠と愛について

(薔薇王の葬列アニメ24話対応)

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)
 

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Henry Payne, Public domain, via Wikimedia Commons

 

初回と最終回でこの絵をモチーフにしたコマから始まるという構成も本当に美しいです。最終回ネタバレなので内容の前に画像を挿みたかったこともありますし、感想記事もオマージュにしようかと思いました。

 

 

anastasia1997さんのブログでもこのツイートを引いて、初回の冒頭と最終回の冒頭が対になっていることが指摘されています。

 

【感想】『薔薇王の葬列』最終話 プリンセス2022年2月号 - It's a rumor in St. Petersburg

 

1巻の中段のコマはネームの方がモチーフの元絵に近くて、それが完成稿では薔薇だけになり、逆に今話の方はリッチモンドとベスが描かれる形ですね。1巻は『ヘンリー6世』(以下、HⅥ)での薔薇戦争命名由来シーンから始まり、リッチモンドの台詞は『リチャード3世』(以下、RⅢ)の一番最後の台詞になっています。

 

ただ……、始まりのヨーク公の台詞は“かっこいい……!”、と、ここで掴まれたのに、リッチモンドは〜〜、今まで通りのリッチモンドですね。

 

それぞれの思いがリチャードに届くラストが前話のケイツビーと書いてしまいましたが、今話の最終場面こそがケイツビーのターンで、76話で実はまだ半分程度だったヘンリーの思いとリチャード自身の思いが届いたのがこの最終話と考えるべきだろうと思いました。

 

この78話は、ジャンヌやヘンリーについて非常にテーマ性があるオリジナルな内容でありつつ、この冒頭を始めとしてかなりRⅢと史料準拠、そしてほぼ戦闘場面です。また、このオリジナル部分も、RⅢと全く違う話というより、RⅢのすばらしく斬新な解釈・演出と私には思えた、というかそう読みたいと思いました。過去のお勧め記事でも書いたように、『薔薇王』は間口が広くて様々な面で魅力的で、惹かれる箇所や解釈も各人各様に開かれているのも素敵なところです。〈踊り方は、自由だーー〉(13巻56話)と許容してもらえる気がして、原案やシェイクスピア使いのうまさで『薔薇王』に魅せられた私としては、最後まですごい解釈と演出で引きつけてもらえた感激でいっぱいです

 

で、言い訳なんですが、最終話の素晴らしさもあり、最終話から見た全体の素晴らしさもあってなかなか感想がまとまらず、最終話の話の途中に全体の話が入って構成がいびつになっています。78話と全体の感想を別々の記事にすることを考えたり、そうでなくてもすっきり並べられないかと思ったりしつつ、ヘンリーの「僕は、君だ…、愛しているよ、リチャード……」の感想について、今のところ、この形が一番書きやすくてこれに落ち着きました。読みにくく、また相当長くなってしまいまして💦、好きなところをお読みいただければ本当に幸いです(ここまででもう既に長い……)。

 

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ボズワースの戦いについて

最終回の感想、まずそれなの!?と言われそうですが……こんなにすごい戦闘シーンのRⅢを初めて観たと思いました。いやRⅢじゃなく『薔薇王』なのは勿論で、RⅢもそれほど多く観ている訳ではないものの、今話のように史料から構成された戦闘状況を踏まえて例えば映像的にこうした描写がある程度されたなら、RⅢそのままでも最終部の印象が相当違ってくるのではないかとすら感じます。『ホロウ・クラウン』の戦闘シーンもすごく迫力はありつつ、78話はそれ以上に思えます。確かにリチャードがまさに悪役であるRⅢと『薔薇王』とでは描き方の前提は異なるでしょうが、背景にある戦況自体は同じとも言えます。リッチモンドの影武者を追って討つことはRⅢにも台詞があり(←後から書くようにこれまで私は注意が向かなかったんですが)、『薔薇』を読んだ後だと、このシーンはリチャードの敗北前提・予定調和的に描かれなくてもよい、戦い続けたリチャードを描写してもよいと思いました。その点で元の台詞のポテンシャルを最大に引き出していると感じます。私の解釈は偏っているかもしれませんが、この戦い続けるリチャードの描写がこの78話の「俺は俺を愛している」の解釈と繋がっているようにも思えるんです

 

歴史関係の本も長々引用しちゃいますが、菅野先生がそれをどう掬い上げて更に劇的に描いているかが見える形になるといいな〜と、思いまして。

 

リッチモンドの演説もリチャードの進軍の号令もRⅢから、〈王冠か! 名誉の死か!〉はHⅥでヨーク公が戦うシーンからで1巻のリフレインです。リッチモンドの演説の台詞を背景に決意を決め戦場に向かうリチャードが描かれ、リチャードを貶す台詞がむしろリチャードを引き立てます。

 

これに続く、両軍の弓の射撃や砲撃の場面以降は史料準拠でしょう。例えば以下の文献の引用に近い展開になっていることがわかります。「オックスフォード伯の手勢が進軍を開始し、戦いの幕は切って落とされる。これに対して国王軍は、火砲の一斉射撃を浴びせかけた。(中略)国王軍の左翼へ向かって進撃していたオックスフォードの部隊は、敵の射撃を受けて旋回し、ノーフォーク公〔=ハワード卿〕率いる右翼と白兵戦を展開する。ノーフォークの左に布陣していたノーサンバランド伯の手勢が友軍に加勢していたら、数で勝る国王軍が前衛を打ち破っていたかもしれない。(中略)オックスフォード伯の巧みな傭兵で、やがてノーフォーク公父子も捕われ、国王軍の前衛はついに崩れ始める。この時、丘陵上の本陣から戦況を眺めていたリチャードは、敵将チューダーの居場所を突き止める」(陶山昇平『薔薇戦争』)。因みに、陶山先生のこの本では、ノーサンバランドは裏切ったのでなく沼地が間にあって動けなかったとされています。『薔薇』では描かれていませんが、ハワードは……戦死しちゃうんですよ。彼は最後までリチャードに忠実な臣下だった訳ですね。

 

他方、『悪王リチャード3世の素顔』(以下、『悪王』)で言及される史料の1つでは「リチャードは既にノーザンバランド伯が動かないと読み、先制攻撃が必要と考えたのかもしれない。とすれば、彼こそ最大の反逆者であるとしている。(中略)もう1つの敗因は、リチャードの軍から脱落者が多かったことと、士気が低かったことがあげられる。」とのことです。裏切りが出て不利な状況になり、リチャードが攻撃に出たことがこの辺を踏まえてドラマティックに描かれ、この後は更に盛り上がるドラマになっています。

 

リチャードの戦い方について

『薔薇』では、ここで前衛支援に動いたリチャード達が、スタンリー軍に向けて騎走するリッチモンドと思しき将を目にします。スタンリー軍が敵に回ることを恐れた側近はリチャードに退却を促しますが(←史料+RⅢケイツビーの台詞)、リチャードは前衛隊を見捨てる訳にはいかないとして(←ここは1巻のヨーク公と同じ話ですね、史料にあるかは私は不明)、リッチモンドらしき将が率いる小隊に先陣をきって切り込んでいきます。「テューダーの軍旗を見とがめたリチャードは、劣勢を一気に挽回しようとわずかな騎兵を随えて、敵将めがけて猛烈な勢いで突進する。その激しさにテューダーの旗手(中略)は瞬く間に斬り殺され」(『薔薇戦争』)たという話がアレンジされているのではないでしょうか。

 

ここで切り込みに向かう台詞が「天国に…往きたい者は去れ…、だがこの悪魔(俺)に付いてくるなら、手に手を取って共に地獄へーー!」で、RⅢ「天国行きがだめならば、手に手をとって地獄へ行こうぞ!」と、ある意味そのままなのですが、台詞の置かれる場所で相当印象が違います。RⅢでは、この台詞が、リチャードが悪夢を見た後、兵士達への出陣の演説の直前にあり、素直に読むとリチャードは悪夢で予言された地獄落ちを気にしながら振り払うように、半ばヤケで周囲もそれに殉じさせようとしているように思えます。一方『薔薇』では、圧倒的に不利な状況で、死を覚悟する者は自分に付いてこいという意味になります。ですが、こういう入れ替えの演出はありだなと思います。そして、この辺がヨーク公と重なるように描かれていますよね。血が繋がっていてもいなくても、ヨーク公が言った魂の繋がりがあるという感慨と、ヨーク公と同じ経緯で落命かという不安な緊張とが同時に来ます。

 

リチャードが「すべてを賭け」てリッチモンドを討ち取ったかに見えたものの、それは影武者で(←RⅢ)、敵の大将を倒して勝利することにはならず、むしろ影武者を討ち取りに行ったリチャード達は少人数で戦場に孤立します。劣勢になったリチャードに一気にスタンリー軍が攻めかかります(←史料)。それでもリチャードは「次の“リッチモンド”は誰だ… 何度でも殺してやる…!」と戦い続け、敵兵を慄かせますが、馬を狙われ落馬したところで一斉に斬りかかられます。

 

この命、投げた賽に賭けたのだ。(中略)戦場にはリッチモンドが6人いるらしい。5人までは殺したが、あいつではなかった。(RⅢ、河合祥一郎訳。小田島・松岡訳では「影武者」。“Five have I slain to-day instead of him.”)

 

王は人間業とは思えぬ驚くべき戦いぶり、敵を次々となぎ倒していますが、馬が殺され、今は徒歩のまま戦い、リッチモンドを死の淵までお捜しです。(RⅢ)

 

RⅢの台詞通りの戦いが展開されていることがわかります。でも、繰り返しになるものの、リチャードの戦いぶりのすごさを見たのは初めてだという感慨があります。「5人までは殺したが、あいつではなかった。」についても、小田島・松岡訳では「影武者」になってもいるのにこれまで私はほとんど注意を向けておらず、あるいは悪夢・影に怯えたリチャードがリッチモンドに対しても恐怖し押されたように捉えていたたんですが、『薔薇』では、ここも、諦めずに闘い続けるリチャードと狡猾に戦略を仕掛けているリッチモンドを象徴する形で描いていて、本当に引き込まれます。そして、リチャード側にも影武者登場という……。

 

リッチモンドの策略について

リッチモンドは、天幕の中で「“王”が自ら闘う必要はないだろ?」と影武者に実戦を委ねており、ここでもRⅢの正義のリッチモンド像が反転され、リチャードと対照的にされています。同時に、リチャード3世が戦場で亡くなった最後の王で、「この意味では最後の中世人」(『悪王』)とされる時代の変化や、2人の王の政治スタイルの違いを示唆しているのかもしれないと思いました。

 

リッチモンドは、影武者も含む情報戦と裏での取引でリチャード軍を切り崩し、スタンリーの参戦でほぼ勝ちを収めています。過去のヘンリーやスコットランドのジェイムズ王とは異なり、戦略を立てているのはリッチモンドで、大勢を窺いつつ周囲の犠牲を厭わない王の冷徹な計算を感じ、歴史上のヘンリー7世像が反映されているのかもしれません(態度はチャラいですけど)。引き続き、コミカルかつ酷薄なRⅢリチャードっぽくもあります。

 

その一方で、リッチモンドが戦場に出ず自分が影武者を使ったために影武者情報に騙され、また『リチャード3世』興行プロパガンダのために、最終的には取り違えをすることになった皮肉な結末も効いています。

 

リチャードの影武者の話を持ってきたのは、元ティレルから情報を与えられたダウトン! ここも、「情報」に全く予想がつかなかったことはおろか、ダウトンがティレルになることも思い至りませんでした。“エドワード5世暗殺を自白したジェイムズ・ティレルとこれまでのティレルが別人ということかも”までは考えたのに、中途半端でした〜、無念。モアの『リチャード3世史』には、ティレルとダウトン(ここでは2人)が王子殺害を自白し、でも死体の場所を語ることはできなかったと書かれているとのこと。ダウトンがヘンリー7世に取り立てられたのはボズワースの戦いの2年後とされる記録や、ティレルもダウトンも、その後ヘンリー7世に対する謀反に関わっていたとする史料もあり、その1つでは王位継承者の替玉が立てられていたりして(『悪王』)、ダウトンも今話に出てこなかったフォレストもこの後も人を拾ったりヤバい仕事したりしそうです。ここも想像(妄想?)を広げる形になっていますね。『英国王室史』にはリチャードが「愛馬ホワイト・サリーに跨り軍を進めた」とあって(元史料の出典はありませんが)、白馬ってこの辺からなんでしょうか。

 

「俺は俺を愛している」

落馬して斬りかかられ頭部まで負傷したリチャードは、幼い頃森で迷った記憶あるいは悪夢を見て「僕はここにいるよ」の声を聞きます。このシーンは冒頭と中盤で繰り返されます。中盤でこう言って出てくるのはジャンヌになっています。今話で、ジャンヌは、孤独なリチャードが、おぞましいと感じて憎んだ自己の投影であったと明らかにされます。冒頭の「僕はここにいるよ」は、この同じシーンの序奏かもしれませんし、12巻のように、森に迎えに来たヘンリーかもしれません。ヘンリーについては12巻での『夏の夜の夢』オマージュの方が悪夢的で、今話の方が悪夢とは逆の展開になっているのも味わい深いです。

 

12巻52話取り替え子をめぐる諍いについて

 

この後のリチャードの独白はRⅢで悪夢を見た直後のリチャードの台詞の変換になっており、そのリチャードの「俺は自分を愛している」が愛の台詞と、自己受容・肯定として使われたことに驚きつつ、なんと美しい解釈だろうかと思いました。71話のバッキンガムの台詞、73話のアンの台詞と同様、全く違うあるいは逆のニュアンスにされたようでもありながら、RⅢを、愛と王冠あるいは光を求めて戦い続けたリチャードの物語と解釈して描き、RⅢリチャードをやはり肯定・昇華している気がするんです。

 

16巻71話 バッキンガムの望みについて

16巻感想73話 アンの荊棘について

 

また長々の引用になっちゃいますが、78話とRⅢ、それぞれを抜き出します。

 

リチャード、僕はここにいるよ

いつだって僕は……いつだって“ひとり”だった、俺は、男でも女でもない

“おぞましいジャンヌ”をまるで自分のようだと……

そうだ……お前は俺だった……、呪いに縛られ望むことさえ罪だと……、悪夢に怯え傷に安らぎを求め、誰よりも己を憎んだーーあの頃のもう1人の俺――

そうだよリチャード、だから僕は……ずっと、ずっと君にーー

ヘンリー「僕は、君だ…、愛しているよ、リチャード……

“リチャード”……、“リチャード”……、俺は……、俺(おまえ)を愛している (78話)

 

俺は何を恐れている?自分か?他に誰もいないリチャードはリチャードを愛している。そうさ、俺は俺だ。人殺しでもいるというのか。いやしない。いや、俺がそうだ。じゃ逃げるか。なに、自分から?何だってまた?自分に復讐されないようにか?え?自分が自分に?ああ、俺は自分を愛している。なぜだ?何か自分にいいことでもしてやったか?とんでもない、ああ、俺はむしろ自分が憎い(中略)

絶望するしかない。俺を愛する者などいやしない。俺が死んでも、誰一人哀れに思ってくれやしない。あたりまえだ、この俺自身、自分を哀れに思う気持ちなど微塵もないのだから。(RⅢ)

 

ざっくり言えば、『薔薇』の方は、この独白の順を逆にしているとも言えます。「俺を愛する者などいない」→「自分が憎い」→「自分を愛している」。RⅢでは、独白後半でむしろ自分を愛することが否定され、「俺は自分を愛している」はリチャードの恐怖や混乱を示すものにも見えるので、言葉だけを使って、75話での母との話や77話の夢の話のように反対の内容にしたと考えることもできると思います。ですが、RⅢのこの独白の後の最終部までのリチャードの台詞を追うと、「自分が憎い」「俺を愛する者などいない」を再度否定し、闘い続けるリチャードになっているとも読めます。

 

わけのわからぬ夢に魂を怯えさせまい

この胸には、一千もの心臓が高鳴っている。進め、軍旗を掲げろ!

この命、投げた賽に賭けたのだ。(中略)馬だ!馬だ!王国をくれてやるから馬をよこせ!(RⅢ)

 

確かに『薔薇』リチャードは愛し愛された点でRⅢとは大きく異なりますし、愛を得たことが今話での「俺は俺(おまえ)を愛している」に繋がる重要な部分だとは思いますが、RⅢの「俺を愛する者などいない」から「軍旗を掲げろ」と戦場に向かう流れは、76話で愛する者達を失ったと感じたリチャードが、「逃げ」ずに、と王の場所として戦場に戻る展開とパラレルにも見えます。

 

今話では台詞自体は出てこない「王国をくれてやるから馬をよこせ!」も、78話を読んだ後ではポジティブな台詞にすら見え、例えば松岡和子先生の次のような解釈とはむしろ逆に取れるように思うのです。「これほど人間のなすことの虚しさを表現した台詞も稀ではなかろうか。奸計と裏切りを重ね、多くの人間の血を犠牲にして(中略)王冠を掴み取った男が最後に求めるのがたった一頭の『馬』」(松岡和子訳・ちくま文庫版あとがき)。多分他の解釈もあるのでしょうが、私もこれまでこの路線で考えていました。

 

ですが、『薔薇』的には76話以降、王冠はゴールではなく「苦しみ傷を負うと知ってもなお」〈生きる(戦う)意味〉(76話)となっており、そうであるとすれば「馬」もまた、望み続け、〈何度、手に入れても〉〈何度、失っても〉(78話)戦い続けて生きることの象徴になりうると思います。純粋RⅢ的にも、命を賭けると言っているので、王国と馬も賭けのようにも読めます。『薔薇』リチャードについては勿論、RⅢで戦い続けたリチャードを、リチャード自身の愛に値するものと解釈した台詞にもなっているようにも思えるのです

 

ジャンヌ・ダルクについて

そして、最終的にリチャードの姿になったジャンヌ・ダルクも、そもそも戦場で戦い続けた人物でした。そのことにもこの78話でようやく思い至りました。

 

今話でもジャンヌは、台詞上はやはり「魔女」「おぞましいジャンヌ」とされ、リチャードが「憎んだ」自分自身の受容のニュアンスが大きいと思いますし、78話でジャンヌが兵を率いて戦った描写も言及もありませんが、それでも仄めかされているようにも思います。76話でも「行く先が眠ることすら許されぬ戦場だとしても」の言葉に、戦場を見つめるジャンヌが描かれ、今話では、斬りかかられ血塗れになったリチャードの場面で〈いつだって僕は……いつだって“ひとり”だった〉の台詞になっています。wiki情報のみですみませんが、彼女の最後になった戦いでは「矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった」そうです。

 

ジャンヌ・ダルク - Wikipedia

 

1巻2話でもジャンヌはヨーク公と戦った描写があり、『ヘンリー6世』第1部でもジャンヌの戦いが描かれているんですよね。でも1巻を読んだ際も『ヘンリー6世』での(旧敵の)魔女設定の方を使っているんだろうとそこにだけ目が向いていました。リチャードとリッチモンドの逆転的な描写や、ジェーンの「魔女」描写を通じて、正邪と人々の見方の結びつきが描かれた後では、イングランドの敵でヨーク公に敗れた魔女のジャンヌ自体がまた1つの見方として覆されるものになるでしょう。

 

〈いつだって僕は……いつだって“ひとり”だった、俺は、男でも女でもない〉という台詞も、リチャードの孤独や身体の意味と、ジャンヌ・ダルク/リチャードが孤高に信念を貫き、その資格や性別に関わりなく軍を率いたことの二重の意味になっているようにも思います。ここまで来ると、『薔薇』のジャンヌがリチャードと同じ身体か、女性なのかはあまり問題でなくなるようにも思います。

 

写真AC

 

王冠と愛について

「僕は、君だ…愛しているよ、リチャード」

このヘンリーからの愛の台詞も「俺は自分を愛している」「リチャードはリチャードを愛している」の、もう1つの変奏だろうと思います。そして「愛しているよ、リチャード」は、勿論、第1部最後30話の「俺を愛してくれ」に対する、長い長い時を経ての回答でもあるでしょう。

 

(また、その前の5巻20話ではヘンリーは自分の命を差し出して狼からリチャードを守ろうとしていました。30話の悲劇からの逆算とだけ思っていましたが、これが再び反転されたとも言えそうです。)

 

5巻20話「天使」と「愛」について

 

歪つで読みにくくなってしまいますが、ここで初回からの構成の話に大きく迂回させて下さい。

 

RⅢは「寸足らずの歪んだできそこないのまま、月足らずの未熟児としてこの世に放り出され」「この体つきでは色恋もできず」という、その身体故に愛されないとするリチャードの独白でスタートし、その1幕1場で王冠を狙う企みが始まっています。『薔薇』では1話で、RⅢのリチャードの独白以上に劇的な、HⅥのヘンリーの予言の台詞を使ってリチャードの「呪われた」身体での誕生が描かれ、愛を得られず荊棘に苦しみながら楽園の王冠=光を夢見るHⅥの独白が絵のみの夢の形で描写されて始まります。リチャードの身体のコンプレックスが呪いとしてより内在化され、愛や王冠への渇望も無意識的とも言えそうです。『薔薇』リチャードは、愛の欲求も、王冠への欲望も、抑圧していたりそれを求める資格がないと思ったりしていました(「望むことさえ罪」(78話))。愛の欲求に抑圧的なのは原案通り、王冠への欲望を抑圧するのは原案と逆です。

 

1巻2話の感想記事で、ヘンリーとバッキンガムがリチャードの欲望を読む人で、ヘンリーはリチャードの愛の渇望と孤独に、バッキンガムは王冠への欲望に聡いと書きました。その時は原案比較とは関係ないと書いたのですが、菅野先生は、原案リチャードの求めるものが、(王冠を求める背後の)愛と、(愛の渇望にのみ還元されない)王冠という解釈の上で、ヘンリーとバッキンガムのキャラクターを造形したかもしれないと今は思います。しかもそれがHⅥでの厭世的で宗教的なヘンリーと、RⅢで共犯者となるバッキンガムに添うものになっています。

 

1巻2話リチャードとヘンリーの出会いについて

 

そして、第1部では、ハードなHⅥを展開しつつ、リチャードとヘンリーの、周囲の状況からは隔絶された2人だけの世界に入り込むような愛が『ロミオとジュリエット』(+『お気に召すまま』?)をモチーフに描かれたように思います。それに加えて、敵同士でも相思相愛になったロミジュリ完結にならない、欲望/女性の「闇」を嫌悪する『ハムレット』不安要因が入ってきました。第1部最後の30話ではHⅥ通りヘンリーが呪いと予言でリチャードを拒絶し、リチャードの「望むことさえ罪」(78話)という思いを強化し、結果的に「『愛』などということばは」「おれのなかにはおいてやらぬ」HⅥ・RⅢリチャードになったように思いました。

 

7巻30話 予言と呪いについて

『薔薇王の葬列』とシェイクスピア作品対応一覧(妄想含)

 

第2部中盤までは、愛に目を瞑り王冠を求める原案リチャードのような王位簒奪が『マクベス』と重ねて描かれました。尤も、『薔薇』リチャードは王冠への野望も抑圧しており、その隠れた思いをリチャード本人より先に気づき、罪も怖れず情欲と内混ぜになった欲望を重ねたのが、原案リチャード的でもマクベス夫人的でもあったバッキンガムでした。グリーンブラットが『マクベス』について「暴君は何らかの性的不安に突き動かされているということだ」と書いていて、王冠と性的欲望の重ね合わせは多分シェイクスピアの中にも読み込めるものなのだろうと思います(『暴君』)。11巻あたりまで2人の関係に愛があるのか敢えて曖昧にされ、2人ともそれが愛でないかのように考えており、徐々に「本当に欲しいもの」として互いへの愛に気づいていく展開でした。

 

 

愛を自覚し、森の館で「ヘンリー」と呼ばれ、更に(RⅢバッキンガムやマクベス夫人のように)王冠の現実や代償の大きさを認識した時、バッキンガムは逆にリチャードと2人だけの世界を欲し、王でいることを望むリチャードの思いが見えなくなりました(14巻65話)。第2部でのリチャードの王冠への思いは(楽園も、愛も含みつつ)、『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』的主題で出てきた苦悩と闘いを伴う王冠の面もあったと考えますが、そこもリチャードとバッキンガムの違いになったかもしれません。

 

14巻65話愛と荊棘について

 

最終的に自分とリチャードの望みが違うと認識した時(「違う光を見ていた」)、バッキンガムは自ら半身の立場を降り、自他未分化的な欲望から移行して、自分とは異なる他者としてリチャードを愛したのではないかと私には思えます(「“祈り”か……、俺とあんたにもっとも不似合いなものだな」「“悪魔”の俺達には……」「違う」「悪魔だったのは俺だけだ……」「どうかリチャードを罰するな」(71話))。また、78話から振り返ると、71話でバッキンガムが出会いの場面で思い出しているのも、無駄に思える鍛錬をする(=諦めずに闘う)リチャードです。バッキンガムは、「意志を奪われ」るなら「“死”と同じ」と自身も考えていたこと、闘うリチャードに光を見たことを思い出し、その光を奪わないための選択をしたということでしょう。

 

後から考えると、バッキンガムが去ったのに伴い、リチャードの王としての苦悩を理解し求める答えを与えたのが(元)ティレルというのも、(RⅢの文脈とは全く違う意味ながら)RⅢ4幕2場的にも見えます。王の指輪がバッキンガムからティレル=ヘンリーに渡ったのが最終話の伏線だったことにまた参りましたが、王としてのリチャードを愛する、ヘンリー自身が王として最後を迎えるという象徴的な意味もあるような気がします。

 

ヘンリーもバッキンガムも、愛と王冠を望むリチャードの両方の思いに辿り着き、それを求めて戦うリチャードを愛したように思います。ヘンリーとバッキンガムは、逆のルートから同じ所に到達したと言ってもいいような気もしますし、最終的に自分と違う他者としてリチャードを愛したバッキンガムと、「僕は君だ」と言ったヘンリーとは少し違うような気もします。

 

「僕は、君だ…愛しているよ、リチャード」

ヘンリーのこの台詞の前の、「呪いに縛られ望むことさえ罪だと……、悪夢に怯え傷に安らぎを求め、誰よりも己を憎んだ」の後の「そうだよリチャード、だから僕は……ずっと、ずっと君にーー」は、ジャンヌのものと同時にヘンリーのモノローグにもなっているように思います。「悪夢に怯え」「望むことさえ罪」と考えていたのはヘンリーも同様だったという含意もあるかもしれません。

 

ただ、過去のヘンリーがリチャードの孤独に共鳴し、自身の欲望=望むことを抑圧したのに対し、今のヘンリーは、「苦しみ傷を負うと知ってもなお」「求めずにはいられない」リチャードに自分の光を見ています(76話)。バッキンガムとの愛を求め、その後多くを失っても王冠を「望んだ」リチャードとその生を、今のヘンリーは愛している気がします。「僕は、君だ」は、過去の時点で同じだっただけでなく、現在のそのようなリチャードを求めてやまない、そのようなリチャードとして自分が生きたいという謂いでもあるのではないでしょうか。かつて「こんな綺麗なままでいられるはずがない……」「国王がそうやって汚れずにいたから、僕達が血で汚れるはめになった」と非難されたヘンリーは(6巻25話)、記憶をなくしティレルになった9巻で、戦場で自ら戦うリチャードを見て「僕の王」と呼んでいます。そして今話でヘンリーは、血に塗れ、演劇でのリチャード3世そのものとされる(扮装もあるでしょうが恐らくは醜いと見做された)姿で最期を迎えました。そしてそのことが美しいと思えます。

 

6巻25話戦場の遭遇と光について

 

これもここで書くと流れが悪くなるんですが、「“リチャード3世”を殺せ」とティレルに命じたバッキンガムは、もしかしたらティレルにリチャードの身代わりをさせようとしていたのかもしれません。“贄”というのもティレルのことだったかもしれません。勿論単に死の偽装を依頼したとも考えられ、そこはどちらにも取れるようになっている気がします。15巻67話でバッキンガムが言った「それでお前も救われる」は、死の偽装であるなら、過去のヘンリーが叶えたかった2人だけの世界をバッキンガムがリチャードに与えるということでしょうし、身代わりも含むなら、過去にリチャードと死ぬはずだった、あるいはリチャードに殺されたはずのヘンリーが、リチャードのために死ぬことができるという含意がありそうです。ですが、死の偽装にしても身代わりにしても、形としては同じであれ、最終話でヘンリーが身代わりとなり「僕は、君だ」と告げたことは、67話で言われた「救われる」こととは全く違うものになり、そこにはリチャードのように生を全うしたいという思いが含れる気がします。

 

王冠の代償に全てを失っても、王冠を失いつつあっても、なお諦めないリチャードを、寿ぐようにヘンリーが「愛している」と告げることは、第1部30話の、更には初回1話の予言と呪いの否定となり、リチャードの呪いが解かれ、愛を受け取ったことになりそうです。また、亡くなったヘンリーのコマにある〈何度、手に入れても〉と、満身創痍で眠るリチャードのコマの〈何度、失っても〉も、『薔薇』オリジナルの結末であるとともに、やはり、望み、戦い続けるリチャードの結末を肯定するもののように思えます。

 

“A horse, a horse, my kingdom for a horse!”

ご存知のように、これがRⅢのリチャードの最後の台詞です(その後にリッチモンドと戦い敗れるとするト書きはあるんですが)。台詞自体はないものの、このRⅢリチャードの最後の台詞に対応するように、『薔薇』では馬が来たと私は思っていますので! リチャードの落馬後に別のの情報でリチャードに成り代わったヘンリーが戦い続け、リチャードを馬に乗せて走ったケイツビーは、この台詞自体も出てきませんが「おひきください、陛下。馬は私が用意します。」(RⅢ)の通りです。そう、ここもある意味RⅢ通りというか演出と言ってもいい、と無理矢理主張してみます。「馬をよこせ」の台詞自体は初回に出てきて、もしかしたらこれも対になっているかもしれません。

 

1巻1話感想(2)馬と王冠について:まだ1話なのに?

 

ケイツビーについては何度もホレーシオのようだと書いてきましたが、ハムレットと一緒に死のうとするホレーシオではなく、あくまでRⅢのケイツビーだったんだと今までの思い込みを訂正したくなりました。

 

バッキンガムとヘンリーが、自分の思いとリチャードの思いを重ねるようにリチャードを求め、最後にリチャードの意志を愛したのに対し、リチャードに何も求めず、リチャードの存在自体を愛しその意志を尊重してきたケイツビーが、最後に自分の想いを優先させたことも、その結果、余韻の残る結末になったことも感無量です。

 

 

素晴らしいクオリティで楽しませて下さった菅野先生、素敵な作品を本当にありがとうございました!! 今後もアニメや外伝を楽しんでいきたいと思います。

ブログをご訪問いただき、感想記事をお読み下さった皆様にも感謝いたします。

 

(※RⅢは河合祥一郎訳・角川文庫版から引用し、小田島雄志訳・白水社版、松岡和子訳・ちくま文庫版を参照しました。)

 

最終話は、オマージュ推測でなく単に印象の重なりで、スティングが歌うダウランドの“Come Again”のリンクを貼ります(youtubeに行かないと見られないのでリンクですみません)シェイクスピア作品がアレンジされて新鮮に思える『薔薇王』は、ダウランドの歌を現代的に歌って新鮮だったスティングのアルバムのようだと思っていました。“Come Again”は歌詞的にも『薔薇王』っぽい気がしていたのが、最終話を読んだら余計にそう思えました(最終行まで行くと違ってしまうんですが)。英語の歌詞を動画リンクの下に載せます。歌詞カードの翻訳を載せてはまずい気がするので英語のみですみません。検索すると日本語訳は結構出てきますが、3番以降がよく見るのとは違うんですよね。でもそこもいい。元の詩の1番の方の“die”はセクシュアルな含意がありますが、文字通り“die with thee again in sweetest sympathy.”という感じで。
 

Come Again - YouTube

 

Come again
Sweet love doth now invite,
Thy graces that refrain,
To do me due delight,
To see,to hear,to touch,to kiss,to die,
With thee again in sweetest sympathy.

Come again
That I may cease to mourn,
Through thy unkind disdain:
For now left and forlorn,
I sit,I sigh,I weep,I faint,I die,
In deadly pain and endless misery.

 

All the day the sun that lends me shine

By frowns doth cause me pine

And feeds me with delay; 

Her smiles, my springs that makes my joy to grow,

Her frowns the winter of my woe. 

 

All the night my sleeps are full of dreams,

My eyes are full of streams.

My heart takes no delight.

 

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