『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

16巻73話 アンの荊棘について

(薔薇王の葬列アニメ23話対応)

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)

 

神が認める王と罪を背負う王について

リチャードとリッチモンドの対照について、今回もくどくど書いている自覚はあるので、ここはいいやというかたはこちらをクリックいただければ次の話に飛べます。

 

73話はリッチモンドが王位を約束される言葉から始まっています。「お前を身篭った時吉星が輝いた、天使は夢で告げた、“この子は必ずこの国に幸福を齎すと”」。これまでリチャードに付きまとった呪いとは真逆の言葉で、リッチモンドが彼の母から祝福されています。「その頭は王冠を戴くべく」以降は『ヘンリー6世』(以下、H6)の台詞からで、H6では幼いリッチモンドに未来の王位が予言されています。リチャードに向けられた呪いの言葉も、リッチモンドに対する王位の予言もH6ではヘンリーによって語られますが、『薔薇』では双方の母が語る形にされていて、その辺も対照的です。リチャードに対する呪いの言葉が母セシリーからのものであったことは7巻30話で示唆されています。

 

7巻30話 予言と呪いについて

 

73話では神に王位を与えられると言うリッチモンドに対し、リチャードは自分への反乱を〈犯した罪の報いだというのなら〉〈差し詰め“敵”は神の使いか〉と受け止めています。神が認める次代の王リッチモンド、戦いを前に「自分がやったおぞましい所業のせいで」と罪を感じるリチャード、と、『リチャード3世』(以下、R3)の構図そのままのようにも見えます。ですが、72話でのリッチモンドが『リチャード2世』(以下、R2)のリチャード2世に重ねられている気がするのも前回感想記事で書いた通り。それに対して、R2のボリングブルックは「この身の栄達のためにこの身は血の洗礼を浴びたのだ」と自分の王位に罪悪感があり、72話でリチャードが〈一瞬さえも忘れはしない、この身を染めたあいつの血〉〈罪を犯して、欲しいものを手に入れた〉〈代償なのか〉と思いに囚われていたのも(マクベスっぽくもありつつ)、ボリングブルック的に思えます。2人の対照・対立は、リチャード2世=リッチモンド、ボリングブルック=リチャードのようにも見えます。

 

ただ、R2で、王と反乱者の立ち位置は逆で、リチャード2世の暴政にボリングブルック達は反乱を起こしながら、王に逆らうことに負い目を感じ、リチャード2世の方も王への反乱は神に逆らうことだと言っています。また、リチャード2世が敗北してもボリングブルックの王位を神が認めるかが疑われ、それを払拭するためリチャード2世からの王位禅譲手続きを取ることになります。リチャード2世を臣下が殺めるとボリングブルック=ヘンリー4世は罪の意識して上のように語り、『ヘンリー4世』(以下、H4)では自分への反乱を報いのように捉えます。

 

他方、R3のリッチモンドは王に逆らう立場なのに、ボリングブルックとは異なり最初から神の威光と正義を手にしています。「リチャード3世を倒し、実力で王位に就いたヘンリー7世〔=リッチモンド〕は、ヘンリー4世〔=ボリングブルック〕以上の王位簒奪者」(森護『英国王室史』)という見解もあるのに、シェイクスピアの描き方にはこれほどの差があります。R2オマージュを入れて、この辺りを菅野先生は強調して……いるんじゃないでしょうか……。73話ではリッチモンド自身にそう語らせてもいます。「リチャードは仮にも正統なる現国王!」「だが我々はまだ“英雄(ヒーロー)”じゃない」。

 

R2からR3までのこうした構図や流れについて、類似の話を10巻41話記事でも「神が選ぶ王」と「闘い務めをはたす王」の対照で考えましたが、その時はシェイクスピアあげあげというかもっと夢見がちに“R2での不協和や葛藤をR3で円満解決する形になっていて、いいよね!”みたいに書いています。菅野先生のここでの見方は、もっとシニカルでシビアでしたね。シェイクスピアリッチモンド像が、リッチモンドによる巧みなセルフ・プロデュース、「テューダー神話」だと示す形になっています。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

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リッチモンドの“物語”について

そんな『薔薇』リッチモンドなので、この王位を約束する言葉に並行して、周囲の人々がリッチモンドの王位の可能性に否定的だった現実も描かれます。H6やR3で彼の王位が当然視されるおかしさや怪しさがここでも示唆されているように思います。というか、そう描いてもらったので“リッチモンド、原案では特別扱いだよね”と気づきました。

 

リッチモンドの王位の正統性が問われずにすみ、正義が実現されたと思わせるのに必要なこと、それがリチャード3世を〈最高の悪役〉として描くことだという訳で、『薔薇』リッチモンド自身がそう種明かししてくれるのです。これがシェイクスピアを原案にしながら示される面白さ! 自己言及的というか、くるっと中身を裏返してしまった感じです。73、74話では英雄リッチモンドが作られていく過程が描かれます。

 

R3とは異なり、こちらのリッチモンドは神が認める次代の王を演じておりリッチモンドを役者として登場させたのはそういう含意だったのか、と改めて思いました。しかもリッチモンドが腹黒に策謀を巡らす点が、繰り返しになりますがR3のリチャード的でもあって、R3もR2も色々な演出バージョンを見ている面白さもあります。

 

小夜啼鳥(ナイチンゲール)の死について

リチャードの罪の意識の方は、〈天国に行けない〉〈人間(ひと)でない〉と見捨てられた小夜啼鳥(ナイチンゲール)のエピソードに繋がっています。小夜啼鳥は、冬〔=ヘンリー7世治世〕に亡くなる、夏〔=ヨークの治世〕の鳥かもしれませんし、余命幾ばくもなく季節を越せないかもしれないアンとも重なっているかもしれません。

 

小夜啼鳥オマージュも気になって、いつも以上に胡乱な推測であるものの、これは73話と74話で異なる含意を与えられ、それぞれ別の詩と掛けられているんじゃないかと考えました。73話はキーツの詩(“Ode to a Nightingale”)、74話はシェイクスピアソネットというのはどうでしょう。

 

キーツの詩もちゃんとしたことは知らないものの、特に“Still wouldst thou sing, and I have ears in vain To thy high requiem become a sod.”のフレーズが今話に嵌る気がしました(小夜啼鳥と私の立場が逆ですが、73話的には、お前がレクイエムを歌っても土に還る私の耳には虚しい、みたいな)。一寸調べてみたら、キーツは弟を結核で亡くし自身もこの詩を書いた時に結核だったとのことで、暗い始まりや死のイメージ、作者が小夜啼鳥に自分を同一化していることも重なる印象です。

 

関連の箇所だけ抜いてしまって、元詩の雰囲気を壊していたらごめんなさい。元詩の方は、詩人の想像でナイチンゲールに同化するロマンティックなイメージと死の不吉さが複雑に交差しています。シェイクスピア作品も踏まえられた詩らしいので、シェイクスピア関連とは言える……かも。

 

夜鳴鶯の賦

私の心は疼き、私の感覚は物憂い麻痺のために痛む、

あたかも毒人参を口にしたか、それとも、

今しがた阿片を入れた杯を飲みほし、

「忘却」の深い淵に沈んだかのように!

それは、夜鳴鶯よ、お前の幸福を羨むからではなく、

お前の幸福に私自身が酔いしれているからだ。

(中略)

そうだ、遠くへ消え果ててゆき、葉陰で鳴いているお前には

到底分らぬこの世の悲しみを忘れたい、――この世には、

どうするすべもない物憂さ、熱病、そして、苛立たしさがある。

(中略)

恐らくいつまでもお前は鳴き続けよう、たとえ私がお前の

挽歌を耳にすることなく、地下の土と化した時でも。(平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫

 

ですが、リチャードが自分と重ねて放置した小夜啼鳥を、エドワードが丁寧に埋めて葬いました。エドワードは、小夜啼鳥を、そしてリチャードを天国に行ける存在として扱ったことになるとも言えます。

 

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Photo by Klim Musalimov on Unsplash

 

アンの荊棘について

自分の病状も思わしくないなか、エドワードに同じ病の兆候が出ていると耳にしてしまったアンは、必死の形相でエドワードを馬に乗せて森に駆け、王宮から逃げるように言いました。2人を探して追いかけてきたリチャードの手も振り払って、アンはなおも逃げようとします。

 

12巻で自分のやり方で人生を取り戻す、リチャードを改めて選ぶ、とアンが決然と言った場面が好きだったので、それを覆すようなアンの台詞に、アンが抑えてきた暗い感情を見た思いがしたり、死を前にアンの判断や感情が乱れたような印象も受けました。エドワードに逃げろと言ったアンには、アン自身の死への恐怖も投影されているように見え、愛されたかったという本音を言えたことはよかったと思いながらも、きつい展開だ……と感じました。そして菅野先生はそういう描き方もしていると思うんですが、この感想記事を書く段になって遅まきながら思ったのが、それだけでないR3との関係です。それを考えるとまたかなり印象が違ってくる気がしました。

 

この場面、もしかしたらR3ではアンの最後の登場場面になる4幕1場の変換になっているんじゃないでしょうか。R3の流れではリチャードの戴冠前に、アン、エリザベス、セシリーが語り合う『薔薇』には出てこない場面で、ここで、リチャードの王位就任を知らされた3人はそれを恐れて嘆きます。今話ではアンがエドワードに「あの場所は…あまりに“死”に取り憑かれている……」「王宮は、あなたの死を願う者達ばかりの魔窟になる」と言いますが、R3ではエリザベスがドーセットに「死と破滅がおまえを餌食にしようと迫っている」「さ、いそいで、いそいでこの屠殺場からお逃げ」と言っています。

 

また、今話ではリチャードの手を振り払ったアンが「あの王宮は……私が●●望んだ場所じゃないもの」と言い、R3では王妃として戴冠に来るように言われたアンが、行きたくないけれど行きますと答えます(“I in all unwillingness will go.”)。

 

R3で更にアンは、過去にリチャードを呪いつつ“お前の妻も呪われろ”と言った言葉が、今自分に返ってきたのだと言っています。「その呪いの言葉を二度と繰り返す間もなく、たちまちのうちに、私の女心は愚かにも彼の甘いことばのとりことなり、この身は自分自身の呪いの餌食となったのです」。この台詞が、文意を変えて、そして最終的には真逆の言葉にされているのかもしれないと思いました。71話のバッキンガムの台詞解釈・改変と同様、72、73話はR3アンの解釈・改変なのかもしれません。

 

71話でのバッキンガム同様、こちらの方もR3アンを救済するような形になっている気がします。

 

「帰りたい」「あなたと出会う前の私に」「人生を…奪われる前の私に……」という73話のアンの言葉は、はじめは(R3のアンのように)リチャードのせいで彼女の人生が狂ったかのように思わせ、またリチャードにも母から向けられた憎しみと同様のものと一瞬誤解させます。ですが、「あなたは……私の…呪縛なの」でその意味は反転し、「あなたに愛されたかったから」「私を荊棘で縛ったのは、“私”」と、リチャードの愛を求め、得られずに苦しむその荊棘から逃れたいという告白になっています。その台詞の間に〈“女”の義務は、目の前の“誰か”をただ愛することだから〉が入り、選択肢のない女性としてのアンが、愛の荊棘に縛られやすく逃れにくかったことが、やはりR3の「女心は」「甘いことばのとりことなり」を使って言われている気がします。

 

Lo, ere I can repeat this curse again,

Even in so short a space, my woman's heart

Grossly grew captive to his honey words

And proved the subject of my own soul's curse, (R3)

 

このR3アンの台詞は、素直に取れば、アンがリチャードに浴びせた“お前も妻も不幸になるがいい”という「呪い」が、自分自身に帰ってきたということです。これを、今話では全く違う、または反対の意味にしているとも思えます。一方、この元の台詞を、望まぬ事態を次々引き起こしアンを憎んですらいるリチャードをなお愛しているから(my woman's heart grossly grew captive to his honey words)、自分が不幸になっていると取れば今話に近いことになります(R3アンの解釈としては無理がありますかね……)。更に、「女心」が「甘いことば」に捕らえられたという台詞に、アンの愚かさや女心の弱さというより、〈“女”の義務は、目の前の“誰か”をただ愛することだから〉と、女性の立場としてそう仕向けられるという解釈を菅野先生は入れている気がします。原案リチャードは愛の代わりに「王冠を夢見」ましたが、今話でアンは別のものを〈夢見ることさえ許されなかった〉ともされています。この箇所、河合祥一郎訳は「女心の愚かしさ」、松岡和子訳は「愚かな女心」と、女心が形容される形になっていますが、原文だと「私の女性(として)の心がつかまれた」と、もう少し複雑なニュアンスにも取れるような気がします。やっぱり、菅野先生、色々すごい。すごいのが常態化しているのでうっかりしてしまいますが、すごいですよね。

 

ということで、今回は小田島雄志訳から引用してみたんですが小田島先生も「愚かにも」ではあって、grosslyって主にそういうニュアンスかもしれないものの、「とても」とか「ひどく」とかではダメなんでしょうか……。後からもう少し見てみても、福田恒存訳・新潮文庫版は「女心のたわいなさ」、三神勲訳・角川文庫版は「女心のあさましさ」。この中では小田島版が一番いいかも。

 

こう解釈・改変されたアンの台詞が、リチャードのH6の独白「茨の森に迷いこんだ男が、茨を引き裂こうとして茨に引き裂かれ」と繋げられます。1巻で、全く別箇所のリチャードとヘンリーの台詞を使って2人に孤独を語らせ惹かれ合う瞬間を作り出したように、ここでもR3のアンの呪いの台詞とH6のリチャードの独白を共振させている気がします。今話でリチャードは、自身も得られない愛に苦しみ、またリチャードがアンに同じ思いをさせていたことに気づき、アンに「その荊棘は……今ここで……共に断ち切ろう……」と告げます。

 

バッキンガムが、愛する相手のために荊棘となる自分を断ち切ろうとしたように、今度はリチャードが愛する相手のために、〈たとえすべてを失ったとしても〉=「全てを投げ打」つ覚悟をすることになりました。

 

ボリングブルックの話に戻ると、H4では、苦しんだボリングブルック=ヘンリー4世の王冠を、息子ヘンリー5世が引き受けたことで、ヘンリー4世は自分が罪を被って王位を渡せると救われる形になりました。リチャードは、これとは反対に、後継者を失って王位が危うくなっても〈血塗れの道を選んだ〉〈その業をお前が背負う必要はない〉と、「お前を愛している」と愛の方をエドワードに伝えています。これはH4オマージュがありそうだった、14巻〜16巻70話の展開と逆とも言えます。「父の魂は荊棘なんかじゃない」(70話)とリチャードが結論したヨーク公とリチャードとの関係とも対照的です。でも、どちらか一方が正しいのではなく、やはりその両方が、痛みも伴いつつ肯定されているように思います。

 

(※R2、R3は小田島雄志訳・白水社版から引用しています。)

 

“Ode to a Nightingale”については、ベネディクト・カンバーバッチ(『ホロウ・クラウン』リチャード3世!)と、ベン・ウィショー(同リチャード2世!)の朗読がありました! BGMの選択がこの詩をどう解釈するかの違いのようで面白いです。カンバーバッチ・バージョンはロマンティックでもありつつ暗めで死を匂わせるテイスト、ウィショー・バージョンはもっと甘美な印象です。リチャード3世なのと、カンバーバッチ・バージョンの方が暗めで死を匂わせるテイストなのでこちらを映像リンク、ベン・ウィショーの方は文字リンクにします。


www.youtube.com

 

Ode to a Nightingale - Ben Whishaw - YouTube

 

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