『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

10巻41話闘う王としてのリチャードについて:『ヘンリー5世』

 9巻37話の記事で、エドワード王が成長できなかったハル王子、あるいはヘンリー5世の暗部のように描かれているだろうと書きましたが、41話では、ヘンリー5世の闇と苦悩の部分をエドワードに、光と責任の部分をリチャードに充てて描いているように思えます。〈決戦の前、無数の旗の下に魂を感じる……勝利をこの手に掴む、そう確信する、その瞬間(とき)こそが“”だ〉とリチャードが言っているように、戦いを担う責任がリチャードの光になっており、それは既にリチャードの中にあるとも言えそうです。

 

(※いつものように6世や3世をローマ数字表記にすると読みにくいので、今回は『ヘンリー4世』『ヘンリー5世』『ヘンリー6世』(第3部)をH4、H5、H6(3)、『リチャード2世』『リチャード3世』はR2、R3、『薔薇王の葬列』は『薔薇』と表記します。2幕3場などまで書く場合は2-3と表記しますが、書いたり書かなかったりです。H4は松岡和子訳・ちくま文庫版、それ以外は小田島雄志訳・白水社版から引用しました。)
 

エドワードの落日について

戦場に出ないエドワードは町中でも「あの方の麗明は穢れた雲霧に圧殺されちまった」と非難されています。この台詞については、2つの可能性(あるいは両方?)が考えられて、1つはこの後との関係で、『ヘンリー4世』のハル〔=王子時代のヘンリー5世〕の台詞の転用です。ハルの方は、自らの放蕩を黒雲になぞらえ、“俺はまだ本気出してないだけ”というか、“期待値が低ければ本気になった時に評価が上がる”とばかりの計算で羽目を外しているところがあり、その後、予告通り輝いていきます。『ヘンリー5世』のエピローグでは「ヘンリー5世は、まばゆいばかりにを放ちました」と言われます。もちろん、当時の評価を踏まえてのシェイクスピアの台詞ということでしょうけれど。

 

太陽は時として、その美しさを卑しい黒雲が人々の目から覆い隠すのを許すが、本来の姿を現したくなれば、息の根を止める元凶と見えた醜悪な雲を突き破って光り輝く、人々は……驚嘆の目で仰ぎ見るのだ。(H4)

 

「我らの太陽」(32話)/「ヨークの太陽輝く栄光の夏」(R3)とされたエドワードの方は、雲霧に圧殺され、落日に近づいているようです。〈燦たる一日が絶望の夜に沈むように〉という、ティレルの独白とも、この場面に付された詩のようにも取れる言葉とも呼応しているのでしょう。

 

「あの方の麗明は……」の、もう1つの可能性としては、R3で王妃マーガレットが、王子エドワードがリチャードに殺されたことを言う台詞です。

 

マーガレット 私の太陽、息子のエドワードも今は暗いあの世、その照り輝く光もおまえの憎悪の雲におおわれ、永遠の暗闇の世界に閉じこめられてしまった。(R3)

 

〈燦たる一日……〉〈菫の花が、色を失うように〉の言葉は41話の最初の方と最後の方に出てきて、最後の方ではティレルがこれを語っています(ティレルが語っているのもなんだか意味深な感じです)。

 

これは『ソネット集』12からのようです。「時をつげる時計の音をひとつひとつかぞえ、輝かしい太陽がみにくい夜の闇にしずむのを見るとき、さかりを過ぎさったすみれの花をながめ(中略)大木が、葉を剥ぎとられ、裸になるのを見るとき」「時の神がきみをこの世から引っさらってゆくときに、彼の大鎌をふせぎ立ち向かうのは、子孫しかいない」(高松雄一訳・岩波文庫版)。

 

R3:2-3で、エドワード王が亡くなったことを話す市民の台詞に「大きな葉が散り始めるなら冬は間近だ。太陽が沈めば夜だと思わぬ人はいまい」というものがあり、この後に来るエドワードの死を暗示して言葉を掛けているかもしれません。R3にはヨーク家の終焉を告げるような「疲れはてた太陽が……西のかたに沈んでいく」(5幕3場)という台詞もあります。H6でもR3でも、ヨークの勝利やエドワード王が太陽に擬えられており、7巻26話でもそれを踏まえたと思える描写がありました。エドワード王の光は失われつつあり、その光がリチャードに移行するような描き方に思えます。

 

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エドワードは、ヘイスティングスにも「出陣の真似事はできても……心が戦えんのだ」と言われています。ヘイスティングスは同情してこう言っているのですが、「闘わぬ王は王ではない」と考えそのように行動するリチャードとの残酷な対比にもなっています。

 

エドワードのことをこんな風に書きながら、ヘイスティングスの台詞は耳が痛いというか、胸に刺さるというか。“心が戦えない”。すごく腑に落ちますし、本業に入れ込まず逃げ腰で、楽しくこのブログを書いている自分のことを言われているみたいです。比喩的な意味でも戦うって厳しいよね。ましてやエドワードの場合は命のやり取りをする本当の戦ですもんね。その状態を知りつつ側で支えるヘイスティングス。11巻の展開は……ですが、やはり「善い人」と言われるキャラ造形をされていると思います。)

 

そんなエドワードの状態は「“王宮の悪魔”に殺された」せいだ、と呟いたのが、リチャードの身体の秘密を知る男でした。これはR3のマーガレットの台詞に近い感じです。男はバッキンガムに捕まり、「薄汚いカササギ(おしゃべり)」「お前がかつて見た光景(もの)を話せ」と言われます。

 

細かい話ですが、これは、1巻1話と7巻30話で引かれたH6(3)のヘンリーの元の台詞「おしゃべりのカササギが不気味な歌を調子外れに歌った」からですね。この言葉の後に「お前の母親は並外れた産みの苦しみを味わった」というリチャードの身体についての台詞に繋がります。

 

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ヘンリー5世の光と闇としてのリチャードとエドワードについて

王宮に残るエドワードの代わりにリヴァース伯たちが兵を率いて参戦しますが、王が来ないことで、北方は蔑ろにされているという不満が兵などから出てきます。それに対してリヴァース伯たちは、「自身の苦痛以外を想像する能力のない馬鹿者共め!」「国王陛下は貴様らの平和を維持する為に日夜懊悩しお命を削っておられるのだ、農民共が安眠している間もな!」と随分な物言いをするのですが、実はこれ、ほぼヘンリー5世の台詞です。9巻40話でも引いたアジンコートの戦いの場面のもの。ただ、誰かに言う言葉ではなく、ヘンリー5世が苦しい状況で毒づく独白です。

 

王〔=ヘンリー5世〕 奴隷は、一国の平和な民として、平和を享受している、ただその粗末な頭では思いもつかぬだろうが、国王はその平和を維持するために、百姓どもが安眠をむさぼる時間も、寝もやらず心を砕いているのだ。(H5)

 

そんなリヴァース伯たちに、リチャードは反論するかのように「王は神の代理人だ、つまりすべてを背負う責任がある、お前たちの命も魂も、借金も未亡人も子供も罪悪も皆王に背負わせろ!眠れんなどと泣き言を言わせるな!」と言い、兵たちの信頼がリチャードに寄せられていくのですが、これもヘンリー5世の、しかも同一の独白から取られています。

 

王の責任か!ああ、イギリス兵一同のいのちも、魂も、借金も、夫の身を案じる妻も、子供も、それまでに犯した罪も、すべて王の責任にするがいい!おれはなにもかも背負わねばならぬ。この苛酷な条件は王という偉大な地位とは双子の兄弟なのだ、おのれの痛みしか感じられぬばかものどもの悪口にも痛めつけられるほかないのだ。一般庶民が享受しうる無限の心の安らぎを、王はどのぐらい捨てねばならぬのか!(H5)

 

H5の元の台詞では、責任を背負うと言いながら、そこには皮肉や不満が含まれています。庶民は眠れるのに王は眠れないことは、ヘンリー4世・5世が共に言いますが、ヘンリー5世にはそんな闇や本音をもちながら、苦悩と責任を引き受けているわけです。この台詞の後、ヘンリー5世は、兵力が少なくて不利な戦況を「少数であればあるほど名誉の分け前は大きくなる」(H5)(40話でも引いたアジンコートの演説。「ぬくぬくとベッドの中にいる」の箇所)とハッタリをかまし兵を鼓舞して、勝利を手にします。

 

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最初に書いたように、このヘンリー5世の苦悩や闇(や本音)がエドワードに、責任と光(と建前)がリチャードに割り振られています。この引用箇所については、リチャードの方がヘンリー5世より決然としていて格好いいくらいですが、本音部分の独白の台詞を、建前部分の演説のように使っているからかもしれません。

 

この辺の転換や変調も『薔薇』の見事なところだと思います。下で引用する部分は、建前の演説部なので元も格好よくて、その感じに近くなっていることがわかります。尤も、ヘンリー5世の強さや魅力は、そういう場面での格好よさ以上に、“勝手言いやがって。背負えるわけねーよ。”みたいな本音がありつつ、王は下々から批判されてなんぼ、みたいな開き直りや度量の深さにあるだろうとは思いますが。

 

リチャードも、“王のように”兵を鼓舞して進軍します。(史実通り、スタンリー卿がベリックに残る形にして「あとは我々が、今のうちにエディンバラへ」と言っていますね!)ここは、アジンコートの演説ではなくてその少し前のヘンリー5世の台詞からかと思います。

 

戦のしかたを教えてやれ……イギリスの郷士たち、イングランドに生み育てられたおまえたちの五体をもって……この私にさすが母国の名に恥じぬものたちだと叫ばせてくれ。……おまえたちの勇気に輝く目を見れば、卑怯卑劣な男は一人もいないとわかるぞ。……神よ、ハリーに味方したまえ(H5: 3-1)

 

ジェームズ王とオールバニ公について:『リチャード2世』

兄のスコットランド王ジェームズ3世から王位を奪うと言っていたオールバニ公ですが、ありがたく参照している『悪王リチャード三世の素顔』によれば、スコットランドに侵攻してみたら(リチャードが裏切りを懸念したほど)人望がなくて兵が集まらず、所領安堵されたら彼はあっさり王位を諦めたということでした。この辺は、〈あんなにも簡単に国を売るとは……、あの男に旗印が務まるかどうか……〉(40話)というリチャードの台詞にまとめられていたということでしょう。リチャードはジェームズ王とイングランドに有利な協定を結び直し、わずかの兵の犠牲でベリックをイングランド領とした点で多大な功績と考えられるということです。

 

40話41話を読んだ時、あまり歴史に詳しくないこともあって、ジェームズ王とオールバニ公については『リチャード2世』オマージュかー、と思っていたんです。

 

(時系列としては、リチャード2世→ヘンリー4世→ヘンリー5世ですが、この記事では先にヘンリー5世を出してわかりにい記述になってしまっていると思います。ご容赦を。)

 

R2のリチャード2世は、自身の王位は神から授かったもので誰からも犯されるべきでないと考え、忠臣=叔父ジョン・オブ・ゴーントの諌言にも耳を貸さず、叔父の死後には財産を没収したり、同性愛関係が仄めかされる身分の低い寵臣を取立てたり、無計画な出兵をしたり、と親族・貴族たちの反発を買います。(R3で周囲からのリチャードの身体への嫌悪・侮蔑表現があるように、R2では仄めかし程度ですが貴族からの同性愛嫌悪が表現されています。)ゴーントの息子ボリングブルック〔=後のヘンリー4世。リチャード2世の従兄弟。〕は国外追放になっていましたが、その仕打ちに怒り、貴族たちと反乱を起こすという展開です。その反乱後も、リチャード2世は王位は神によって保証されている、と強弁します。

 

王〔=リチャード2世〕 荒海の水を傾けつくしても、神の塗りたもうた聖油をこの身から洗い落とすことはできぬ

 

ボリングブルックがおれと偉大さを競おうとしておるのか?だが俺以上に偉大にはなれぬ……おれにそむくことはすなわち神への誓約を破るものだ。(R2)

 

それで、ジェームズ王をリチャード2世のように描き、オールバニ公(とリチャード)をボリングブルックに重ねているのかと想像していました。ですが、ジェームズ王が下層出身の寵臣を重用して旧貴族と対立したことも、オールバニ公が国外に逃れていたことも史実準拠のようでした(『悪王リチャード三世の素顔』)。

 

なにこの相似(2回目)……。40話で敢えて「お気に入りの男友達と戯れる」と表現されていたり、41話では王に相応しいかは「神がお決めになる」「オールバニに国王は務まらない」とジェームズが言ったりしているので史実と結びつけつつR2オマージュのような気はする、のですが……。そして細かい箇所ながら、エディンバラ城の場面でリチャードたちが城壁の下から呼びかけ、急に家臣が下手に出る展開もR2っぽい感じがするんですよね。

 

(『薔薇』とは一寸はずれますが、ジェームズ王の寵臣たちもこのイングランドとの戦争で貴族たちから処刑されたそうで、ここもR2と似ています。逆に、オールバニ公は王位を要求しながら領地と身分保証だけで納得しますが、R2ではボリングブルックは領地と身分保証を求めて反乱を起こしたのにリチャード2世が彼を恐れて王位を譲るという展開でした。ありがちな話ということなのかもしれませんが、なんだか不思議な符合です。)

 

ここでは、(無条件に)神から授かる王位と、(闘う)務めを果たす王が対比されています。リチャードは、ジェームズ王に過去のヘンリーを重ね、闘う務めを果たさなかった王を自分が殺したと怒りをぶつけます。

 

R2では、王権神授的な王と務めを果たす王が対立的に書かれていて、そのため、R2では、実際の王位は務めを果たす王に渡る一方、ボリングブルック〔=ヘンリー4世〕は“自分が王位に就いたのは正しかったのか”と悩み、王位の正統性を巡って後から揉めることにもなります。そして後にヨーク公が、正統な者が王になっていないし務めも果たしていない、と戦を起こしてH6、『薔薇』1巻になるわけです。

 

正しい王を神が選ぶという論理について:『リチャード3世』

R2やジェームズ王とは逆に、『薔薇』のリチャードは、むしろ、(闘う)務めを果たし責任を負う者が王として神から選ばれる、としています。「闘わぬ王は王ではない、王冠を戴いていたとしてもー神に選ばれし王ではないー」。兵士たちへの檄でも、上で引いた箇所に続いて「偽りの王を倒せ!」「勇気の命じるままに進めば、神はお前を選ぶだろう」と言っていました。

 

この箇所は、R3での王位についての解決の仕方に近い気がするんです。資質的にふさわしくない王でも、神が与えた王位を奪ったことでボリングブルックが葛藤を抱えるR2とは異なり、R3では務めを果たす者・正しい行いをする者を神が改めて王に選ぶ、という論理になっていると思います。ここから先、R3のこの先の話になるので画像を挟みます。ここまでのところもわかりにくい記述で恐縮ですが、ここからも多分わかりにくくて、しかもここまでのところ以上に妄想混み。R3既読またはネタバレOK、妄想OKな方はお付き合い下さい。飛ばす方は下の画像をクリックして下さい。

 

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写真AC

 

実は、R3で“偽の王を倒せ”に近いことを言って檄を飛ばすのは、リチャードを倒すリッチモンドです。

 

リッチモンド 卑しい石ころにすぎぬ本性を……王座の箔で、貴い宝石と見せかけている男……。……諸君が、神の敵を相手に戦うとすれば、正義の神は諸君を……お守りくださるだろう。……されば諸君、神と……正当な権利の名において……勇んで剣を抜くがいい。(R3)

 

執筆順としてはR2の方が後ですが、物語の流れではR3が最後になり、チューダー朝の始まりを宣言するものです。しばしば指摘されるように、血統的にはリッチモンドの王位継承権はリチャードやジョージの息子のエドワードより下になるのに、彼は正統な王として描かれます。(『悪王リチャード三世の素顔』の石原先生は、チューダー・プロパガンダとすら書いています。)シェイクスピア作品では王家で混乱が起きた後、最後に新王が立って秩序回復みたいな展開は珍しくないのですが、R2からの流れをR3が解決する意味はそれなりに大きいと思います。しかも、『薔薇』にとって重要なのは、H6とR3を下敷きにしていながら、菅野先生が敢えて、R2(多分)、H4、H5の話を入れてきていることだと思うんです。

 

見事さはそこにとどまりません。リッチモンドの台詞っぽいものが入ることで、リチャードの栄光の中でその後の転落を暗示する『マクベス』のような効果もあると思うんですよ。かつ、話を先取りして務めを果たす王を神が選ぶというテーマを入れてから、その資質があるのに身体のせいで神に選ばれない者が神に挑戦する、というH6、R3に再度話を戻すことによって一層凄みが生まれるように思います。

 

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光の移行について

凱旋したリチャードは王のようだと迎えられます。41話では、原案H6で活躍したリチャード以上に、王としての資質と威厳が備わっていることが描写されました。リチャードにとっての光もまた、敬愛する父の王位の栄光=楽園からは大きく移行しています。まだ幼さが残り王位を憧れとして夢見ていた1巻の頃とは違っています。また、ヨーク公の死後、一度はヘンリーとの愛に光を見て挫折したリチャードが、再び光を見出したとも言えそうです。

 

光は、平和や安寧の中にはない、闘わぬ王は王ではない〉。

 

この台詞の前にエドワードがリチャードに「無骨な鎧」を脱いで着飾るように言ってもいるので、ここはR3冒頭の「頼りない平和な時世に、どんな楽しみがある」を元にしているだろうとは思います。ですが、H5モチーフが入ることによって、『薔薇』のリチャードは、闘い、責任、苦悩を伴うものとしての現実の王位を渇望し始めたように思えます。リチャードの求める光も移行しており、それは既にリチャードの中にあるものにもなっています。

 

そんなリチャードに、40話ではジャンヌの亡霊が、41話では悪魔のような翼をもったヨーク公の幻影が、(『マクベス』の魔女の予言のように、と私には思えてしまうのですが)王位を囁きます。

 

〈鋼に包めばこの身体は鋼になる、どんな罪が隠されていようと、ただの鋼に〉という台詞は、やはりH5の「ああ、戦の神よ!兵士たちの心を鋼のごとく鍛えたまえ」を連想させます。この台詞は、リチャードのものかヨーク公のものか敢えて判別しにくいようにされていると思いますが、安寧に止まれない心情と、王の身体になれないことの未練の一方、武断の王としての資質(の自負)が示されているように思います。

 

 

可愛さの残るハルとは違う、威厳と逞しさがにじむヘンリー5世を演じ分けるトムヒの素晴らしさ。それでもセンシティブな風情が役に陰影を与えていると思います。

 

シリーズの中でも最高と評価する方が多い『リチャード2世』。私も同意見で、これは本当によかったです。映像的なオマージュの豊かさ。映像ならではの美しいロケーションなど、舞台とは異なる強みも十分に生かした作品です。タイトル・ロールのベン・ウィショーの説得力。ゲイネスを明確に表現する演出も素敵です。

 

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