『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

3巻9話それぞれの獲物について

3巻9話では、エドワード王がエリザベスを王妃にすることを彼女に約束し、密会を重ねていく経過が狩りに擬えて描かれます。独白以外の、エドワードとエリザベスが交わす会話は、「はっきり言って貴女と寝たい」も含めて、『ヘンリー6世』(第3部)(以下、HⅥ(3))の3幕2場をかなりそのまま踏襲しています。(←この台詞は本当にそのままなんですよー。)

 

獲物を仕留めるエリザベスについて

エドワードとエリザベスの会話は、かなりHⅥ(3)のままですが、〈獲物を仕留める時は、風下へ回るのが鉄則—〉というエリザベスの独白は、元のHⅥ(3)ではジョージの台詞です。ジョージは、エドワードがエリザベスをうまく口説こうとしているという意味でそう言っているのですが、『薔薇』ではエリザベスが仕掛け、〈主導権は、私が握る〉と、獲物を仕留める側がエリザベスになっているのです。

 

復讐のために王妃の座を狙う点は『薔薇』オリジナルですが、身分の低い未亡人エリザベスが王妃になり親族ウッドヴィル一族が繁栄を極めた史実を考えても、「お妃になるには身分が低すぎますが、あなたの娼婦になるには出来がよすぎます」(HⅥ(3))の台詞を裏読みする演出的な描き方が素晴らしいと思います。独白部の台詞を入れ換え、エリザベスの背景や動機を描くことで、会話自体はかなりHⅥそのままにしながら、「顔に似合わず大胆」(『薔薇』)に野心を抱くエリザベスが造形されています。

 

恋の骨折り損』連想で言えば、こちらでもフランス王女たちが恋になぞらえて鹿狩りしていました。「殺したくもない鹿の血を流そうとしている」=自分にその気はないのに恋をさせる、と王女が言っていました。王女はそう言いながらも、こちらはハッピーエンドと言ってよい展開になりますが……。 

 

広告

 

もっと際どい(?)HⅥの描写について

〈獲物を仕留める時は、風下へ〉というジョージの元の台詞は、請願に来たエリザベスとエドワードが話す横でエドワードが彼女を気に入ったことを察知した弟たちが、こっそりエロトーク、といった中で語られます。9話のシーンより、HⅥ(3)のジョージとリチャードの会話の方が露骨といっても過言ではありませ……、過言ですかね……。ここはもう是非松岡和子先生の注と共にご覧ください。(注は※の形で引用しています。)

 

ジョージ (リチャードに傍白)王は狩猟ならお手の物だ、獲物には風下から近づくのさ!

(中略)

リチャード (ジョージに傍白)……接近戦に持ち込め※、さもないと長い剣をぶち込まれるぞ。

 ※Fight closer, or you’ll catch a blow「離れて闘うと剣を打ち込まれる」ということだが、you’ll catch a blowには「性交する」という裏の意味がある。

ジョージ (リチャードに傍白)あの女なら大丈夫、倒れりゃ別だがな。

リチャード (ジョージに傍白)そうなったら大変だ、王にとっちゃ絶好の機会だからな。

エドワード 子供は何人いるのだ、未亡人?

(中略)

リチャード (ジョージに傍白)4人になるぞ、陛下の言いなりになれば。

(中略)

リチャード (ジョージに傍白)しつこく迫ってるな、大雨に打たれりゃ大理石も摩滅する。

ジョージ (リチャードに傍白)真っ赤に燃えている、あれじゃ女の封蝋もとろけるな※。

 ※melt オルガスムに達するという意味がある。(HⅥ(3):3-2)

 

HⅥでは城での謁見の場面になっていますが、9話では実際の狩りの場での場面になっており、狩りと並行して描かれています。これは台詞と掛けられているだけでなく、史料と重ねられているところもありそうです。

 

エドワード王とエリザベスが面会したのは「狩猟場近くの城内」、更に「城内ではなく森の中で手込めにしたのが先であったともいう」、と森護『英国王室史話』にありました。引用にある、「王は狩猟ならお手の物」の台詞自体がその話の喩えになっているのかもしれません。第2部でも思いましたが、史料も踏まえているだろう菅野先生のアレンジ凄すぎ、かつ滅茶滅茶スマート

 

(1巻2話の記事でも書いたように、『英国王室史話』には、エドワード王の結婚はウォリック伯に政治的に対抗する思惑混みだったとする説も示しています。ヘンリーもエドワード王も、史料上では政治的思惑込みの結婚という説があり、HⅥでは2人とも政治より私情を優先した結婚として書かれ、『薔薇』ではエドワード王の結婚がHⅥ通り、ヘンリーが愛のない政略結婚として描かれている訳ですね。)

 

HⅥのエリザベスはここでは身体を許さず、会話を交わしたのみでエドワードはその丁々発止のやりとりと美貌に惹かれ、彼女を王妃にすると言います。ですが、それにもかかわらずエリザベスは上述の台詞の中で性的に見られ語られる“対象”になってもいます。一方、『薔薇』のエリザベスは、比較的すぐエドワードと肉体関係を結びましたが、一旦までかざして抵抗し(“Fight closer、その後エドワードに“倒されて”います)、こちらでもエドワードと寝る前に彼女を王妃にする気持ちを固めさせています。そしてこちらは、エドワードに押されたように見せながら、エリザベスが主導する描き方でした。

 

『薔薇』では、エドワードとエリザベスが実際に性関係をもつ横で、偶々それを目撃してしまったリチャードが、自分が性的な対象として扱われたことを思い出す、というHⅥとの逆転も施されていました。

 

狩られた鹿について

『薔薇』では、この狩りの台詞に擬えて、エドワード達の逢瀬とリチャードの狩りとが平行して描かれていました。リチャードが仕留めた鹿を屠り、その後それが晩餐に饗されます。晩餐の席で、リチャードは〈血の味……、血の匂い…、多分同じだ、あの行為も…、愛することも愛されることも、無いだけだ、俺にはーー〉〈本当の俺を知れば、逃げていく……、だったら誰もいらない、俺にはただ戦場があればいいーー〉と考えています。

 

ここでリチャードには、性愛が、狩られて饗される鹿=性被害とほぼ同じものとして認識されているように思えます。更に〈本当の俺を知れば、逃げていく〉と、その関係からすら疎外されていることで二重に傷ついているかのようです。

 

(追記)

狩られた鹿は『お気に召すまま』にも出てきていて、鬱ぎ屋で孤独感のあるジェークイズが、矢を射られて群れから離れた鹿に「みじめな境遇であれば仲間はずれにされるのだ」と語りかけたり、狩られた鹿を献上する時に歌を請うエピソードがありました。 ジェークイズの憂鬱感や孤独を同性愛と捉える解釈もあります。そして、鹿に語りかける場面の台詞や歌の歌詞も、やはり相当セクシュアルな隠喩だろうと思います。

 

HⅥ(3)3-2は、エドワードとエリザベスの会話の後、よく登場するリチャードの独白が置かれている場でもあり、それとの繋がりも感じさせます。記事でも度々引用している箇所ですが、再び。HⅥでは、「喜び」=王位に就くことですが、この一部を強調して〈戦場があればいい〉にしている気がします。(今回は松岡訳で統一してみました。)

 

リチャード エドワードは女なら誰でも丁重に扱うさ。(中略)愛の女神はまだおふくろの胎(はら)の中にいた俺と縁を切り、優しい愛の作法なんぞには手を出すなとばかり……どこもかしこもちぐはぐにしやがった……ならば、この世が俺に与えられる喜びはただ1つ、俺より見栄えのするやつらに向かって命令し、叱りつけ、力をふるうことしかない

 

9話ではこのシーンの直後で、アンがリチャードを想ってくれていた!のですが、それが救いでもあり、すれ違いが悲しくもあり……。アンは、リチャードの人を寄せつけない雰囲気に踏み込めないと思っているところもあります。アンがリチャードを大切に思いながら、深く踏み込めないところは今も続いている感じがありますよね。逆にその孤独に共感して、どんどん距離を縮めてしまうヘンリーは、リチャードの〈孤独を見計らったかのように〉(10話)国境を超えて!すぐそこまで来ていたりもします。

 

ヘンリーと王子エドワードについて

HⅥでは、マーガレットと王子エドワードがフランスに援軍を求めに行っている間に、ヘンリーが故国懐かしさで(←そんな理由!)祈祷書を手に変装してスコットランドからまい戻るという展開になっています。“マーガレットが援軍を頼んでも難しいだろう、妻も息子もかわいそうに”などと考えていますが、やはりどこか他人事。その前の場面では羊飼いの方がいいと言いながら王位に未練もあり、「辛い逆境をすすんで抱きしめよう」と自分を納得させています。

 

『薔薇』のヘンリーは、今のエドワード王の治世の方が「ヘンリー王の時よりずっとまし」と言われても、「それならよかった」とむしろすっきりして幸福感すら感じています。こちらは妻子のことなど顧みず、当てもないままリチャードを探していました。

 

どちらにしても、(元)王としてはいかがなものかと思える行動ですが、自分の立場も考えず出て行ってしまったヘンリーに『薔薇』のマーガレットは激怒。王子エドワードも、自分を廃嫡したヘンリーを「もう、私の『父』ではない……!」と、父扱いしていません。

 

王子エドワードはヘンリーの子ではないという噂があったそうで、HⅥ(3)ではそれを踏まえて「お前〔=王子エドワード〕の親父が誰であれ、おふくろはその女〔=マーガレット〕だ」とリチャードが揶揄する台詞があります。これが9話では王子エドワードとマーガレットの台詞に効果的に転換されています。「〔マーガレットの子ではあっても〕『父上』は違うのでしょう?」と辛辣な皮肉を言う王子エドワードに、「そうだったらどんなによかったか…、冗談です」と返し、「あの方が父でないと言うのなら、証明してみせなさい」「貴方は父上と違って立派に役目を果たせる男だと」「貴方の『母』からの命令です」と言うマーガレット様が漢前。王子エドワードは「父(かれ)への愛ではなく、母上(あなた)の為に」ヘンリーを探して連れ戻す約束をします。

 

こちらはそもそもヘンリーの感情が2人に向いていないので、彼女たちの反応が至極真っ当なものに思えます。王子エドワードの言葉とは裏腹に、彼がヘンリーの実の子であるだろうことが6巻で描かれ、精神的に脆いヘンリーには、おそらく王子エドワードの存在を認めることができなかっただろう事情が見えてきます。ですが、王子エドワードにとって、父から全く相手にされなかったことは王位継承の廃嫡と共に傷になっています。王子エドワードもまた親の愛を得られなかった子供です。父への憎しみを母マーガレットと共に表に出せていることが、むしろ王子エドワードの健全さに繋がっているような気がします。(その結果、本来の目的とは逆に、ヨーク側にヘンリーを渡してしまったりしますけどね。)

 

広告

 

それぞれの獲物について

前段の鹿を狩る話については、HⅥ(3)でリチャードが弟と父の仇としてクリフォードと闘っている箇所の台詞も思い浮かびました。リチャードを助勢しようとするウォリック伯にリチャードはこう言います。

 

リチャード いや、ウォリック、お前は別の獲物を狙え、あの狼は俺がこの手で仕留めてやる。HⅥ(3)

 

リチャードはここで狼と言っていますが、ヨーク公がHⅥ(2)でほぼ同じ台詞を言っていて、こちらでは「この鹿は俺がこの手で仕留める」です。(この台詞と掛けられていないとしても)狩りは、肉体関係の比喩だけでなく、エリザベスの復讐とも重なっているかもしれません。鹿を食べる箇所の〈血の味〉〈血の匂い〉は、グレイ卿殺害の因縁も感じさせますし、『タイタス・アンドロニカス』オマージュを少しずつ出しているのかも、と思います(初読時は思ってもみませんでしたが)。

 

鹿と狩りの話については、色々思いつきをあげているだけかもしれませんが、幾重にも掛けられている気もします。

 

引用の台詞自体は9話に出てこないのですが、エドワード王とエリザベスが“狩り”=密会をするのと並行して、それぞれが別の獲物を追う感もあります。リチャードは文字通りの狩りをしているだけでなく、ヘンリーと遭遇し(エドワードと狩りをする口実で)こちらも2人きりで過ごすことになります。

 

イザベルは王妃への野心を抱きつつ、ジョージとラブレターのやりとりをしています。

 

ランカスターの王子エドワードは、自身の王位と「母上の為」にヘンリーを探し出そうとしたものの、この後の11話では更に憎しみを募らせてヨーク側にヘンリーを捕らえさせます。HⅥではヘンリーを捕らえるのは森番の2人で、彼らはヘンリーを鹿に擬え「この鹿の皮は猟場の番人の正当な報酬だ!こいつは前の王だ、とっ捕まえようぜ!」と言っています。

 

そしてウォリック伯は、この後、彼の外交交渉を台無しにし、国益より私情を優先したエドワード王の結婚に怒り、王を狩る側に回ります。ウォリックは、今話で、エドワードがヨーク公に似てきて「時々錯覚」する、と言いながら、〈敵(あいて)が誰であろうと〉「 貴方の●●●王冠は、私がお守りします」と亡きヨーク公に語りかけていて、彼の論理の中では、エドワード王に対する謀反がヨーク公への裏切りにはなっていないことが布石として描かれます。この辺の機微や、ウォリックの愛憎の描き方も素敵です。

 

エドワード王の恋に対するリチャードの思いは複雑です。結婚ともなれば〈問題にならぬはずがない〉〈父上が命を落としてまで手に入れた王冠よりも、まるであの女の方が価値があるような口ぶり〉と、ウォリックに近い思いを抱いてもいますが、王冠よりも君と出会えたことの方が嬉しいと言ったヘンリーを思い出してしまったりします。加えて、自分には愛は無縁とも考えています。そんなリチャードの前に、ヘンリーが登場して9話終了です。

 

※HⅥについては、注も含めて松岡和子訳・ちくま文庫版から引用しました。

  

『お気に召すまま』から、際どく聞こえる“鹿を獲ったら”(What Shall He Have That Killed the Deer)。この音楽だと、そう考える私がおかしく思えます……。


www.youtube.com