『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

彩の国さいたま芸術劇場、ストラトフォード・フェスティバル『ヘンリー8世』感想

彩の国シェイクスピア・シリーズ『ヘンリー8世』再演ですね〜! このニュースの直前にちょうどDVDを観て感想を書こうと思っていたところでした。(祝再演の気持ちはありつつ、地方民なのでいずれにしても放映かDVDでの鑑賞になったとは思われます。)

 

natalie.mu

 

ヘンリー8世』は、先日Strasford Festivalの配信(以下、SF)で初めて観て、その後、彩の国さいたま劇場のDVDを観ました。原作は受け取り方が難しいというか、どう観たらいいか迷う作品ですね。この後であらすじ込みでその辺を書こうと思いますが、よくわからなかったり、不自然に見える展開がそれなりに多い気がします。他のシェイクスピア作品でもわからない/不自然に思える展開はありますし、歴史にもあまり詳しくない素人が言うのも何ですが、キャサリン王妃との離婚の箇所や、カンタベリー大司教クランマーが良心的な司教にされている辺りは特に無理矢理感があって作為的に思えるほどで、むしろ史実の方がすっきり納得できる気がします。

 

『薔薇王』でのイーリー司教主演・リッチモンド演出『リチャード3世』劇を、事情がわかっている読者として観ている感じといいますか。逆に、シェイクスピアの『リチャード3世』は、通常、“リッチモンドが特別扱いされている”とか“クラレンス公がリチャードに暗殺されたことになっている”などと考えずにそのまま観ますよね。そのリチャード3世像は、シェイクスピアだけでなくそれまでに多くの人の手で書き替えられた完成形だったこともあるでしょうが、史実が見えなくなるほど完璧に話が作られ『リチャード3世』の方に信憑性を感じるくらいです。ですが、『ヘンリー8世』の方は不自然さが透けて見える気がしましたし、当時の英国の観客はヘンリー8世に関する事情をもっと知っていたり勘繰っていたりしたはずです。しかも発表当時のタイトルが“All is True”って、これはシェイクスピアフレッチャーが敢えて狙っているのでは、と思いました。

 

個人的には吉田鋼太郎演出の彩の国版の方が面白く、物語も明確になってあまり違和感を感じずに楽しめました。演出と演技の力によって『リチャード3世』的な信憑性を感じられるようになったり、作品世界に没頭させる仕掛けを作ったことが奏功したのではないかと思います。尤も、SF版の方が初見で英語力もなく本を見ながらストーリーを追ったのに対し、彩の国版は日本語だしSF版を観て登場人物についてもイメージできた後だったという違いもあるかもしれません。逆に、SF版は、観ている間はあまり面白さを感じなかったのですが(ごめんなさい)、この作品の違和感がどこにあるのかを考えるきっかけになりました。

 

で、先に、不自然に感じたり執筆背景が気になったりした理由を、あらすじと歴史的事実(とされること)を入れながら書きます。歴史の方は、wikiやSFのプログラムを見た程度のいい加減なものなので間違っているかもしれません。一応あらすじの箇所を読まなくてもなんとなくわかるようには書いたつもりで、次のセクションではあらすじ全部を書いてしまうので、それを飛ばしたい方は下の画像をクリックしてください。

 

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写真AC
“Like the lily, that once was mistress of the field and flourish'd, I'll hang my head and perish.” Henry Ⅷ

 

あらすじと歴史など

戯曲)ヘンリー8世治世の臣下の勢力争いが示され、寵臣の枢機卿ウルジーにバッキンガム公が反目し、ウルジーの策謀によりバッキンガムはヘンリーへの謀反の濡れ衣を着せられる。ヘンリーの妻キャサリン王妃がウルジーの目論見を看破し、ヘンリーに忠言したものの、ヘンリーはそれを十分考慮せずバッキンガムを処刑する。

歴史)まだ嫡男がいなかったヘンリー8世は、王位継承権があるバッキンガム公を排除したかったという説もある

 

戯曲)戦費調達ためにウルジーが決行した重税徴収が大変な反発を呼び、その反発の後でヘンリーは重税徴収の事実を知り、ウルジーを叱責して重税をやめさせる

( 歴史)ここはwikiや『英国王室史』を読んだ程度ではわかりませんでしたが、成人の、しかもそれなりに力のある王が知らないまま臣下が重税策を決めるとは考えにくいですよね。)

 

戯曲)ウルジーの催したやや怪しげな祝宴でヘンリーはアン・ブリンを見染め、ウルジーが統括する英国内の法廷によってキャサリン王妃の離婚を企てる。キャサリンは(特にウルジーに対して)怒り、離婚が正当なものかローマ法王に訴えると言う。ヘンリーは離婚を企てる一方で「あんな愛しい閨の友と別れねばならないのか?」とキャサリンを惜しみ、それでもキャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻であったので、男児にも恵まれずメアリー以外の子が育たない罰を受けたからそれを審判してもらうのだと語る。ヘンリーが嫡男を得たいために、もう子供が望めないキャサリンと離婚し若い王妃を迎えようとしたことはキャサリンの台詞から示唆される形になっている。

歴史)キャサリン王妃はスペイン王の娘で、(幼かったので形式上と思われるものの)兄が早逝したためヘンリーの妻となった。当時、亡くなった兄の妻を娶ることも「近親相姦」として忌避されていたためバチカンの許可を得ての結婚となっており、宗教上の課題を解決しての政略結婚だった。離婚は、そこを逆手に取って、重婚だからキャサリンとの結婚はそもそも許されなかったという形を通そうとした

(↑その離婚の建前を戯曲内ではヘンリーの本音「良心」として語らせ、その罪のために嫡男に恵まれないとヘンリーが思っている形にしていると考えられます。)

 

戯曲)ウルジーはキャサリンに対し彼女の味方になると言ってローマ法王への訴えを思い止まらせるその離婚やアンとの結婚がどう正当化されたか不明なまま、ヘンリーと結婚したアンの戴冠式が華々しく行われる(戴冠式と最後の生まれたばかりのエリザベスの洗礼式が演劇的には見せ場に設定されているらしい)。ウルジーは離婚訴訟に関与しているにもかかわらずアンは王妃には相応しくないと考え、バチカンには彼がアンとの結婚に反対している旨の手紙を出したつもりだった。(←この辺り、私の理解の浅さかもしれませんが、戯曲ではウルジーの立場がよくわからなくも見えたり、SF版ではキャサリンバチカンへの訴えを恐れている印象、彩の国版ではヘンリーとキャサリンの両方に恩を売り現状を引き延ばしたまま自分に都合よく操ろうとしている印象もありました。)ところがその手紙と好き放題に私腹を肥やしたウルジーの資産目録がヘンリーに間違って届き、の二枚舌や悪事にヘンリーは怒りウルジーは失脚する

歴史)ウルジーが相当に私財を蓄え権力を手中にしていたのは事実である一方、外交でもかなり功績をあげていたウルジーが離婚の件ではバチカンとの交渉がうまくいかなかったことにヘンリーが業を煮やしたとされる

 

戯曲)ウルジーが失脚した後、ヘンリーの信頼を集めつつあるカンタベリー大司教クランマーが貴族達から妬まれ、宗教上の対立もあって審問にかけられそうになる(クランマーはプロテスタント)。誠実でも立場の弱いクランマーを危惧したヘンリーは、枢密院の不当な議決に介入する(←でもヘンリーが激怒しているのが、クランマーを議場の外で立たせたままだったという現代からみると謎理由だったりはします)。ヘンリーは、貴族達がクランマーに手出しできないよう、王の絶対的な力の下で彼らを和解させる

歴史)wikiではクランマーは篤実であったとは書かれている一方、クランマー自身が結婚・再婚問題でスキャンダルもあったとしている。クランマーがヘンリーの離婚とアンとの結婚を正当化し、ヘンリーの意向に忠実だったことが大司教抜擢の大きな理由とされる

 

戯曲)ヘンリーは誕生したばかりのエリザベスの洗礼式をクランマーに依頼し、この洗礼式儀式で終幕。クランマーはエリザベスの王位と輝かしい治世を予言し、ヘンリーは「お前はいま私を一人前の男にしてくれた。この幸せな子を生むまでは、私は何ひとつ成し遂げなかった。」「私はきっとこの子のすることを見たいと思い、私の造り主を褒め称えるだろう。」と語る。

歴史)この後もヘンリーは嫡男を欲し、4人の妻を迎え、男児誕生後はエリザベスを庶子の身分にした

 

長々書きましたが、歴史の方がすっきり納得できる感じで、『ヘンリー8世』の方が紆余曲折というか廻りくどく言い訳的に見えてきます。そして、問題や揉め事の所在は、ヘンリー8世自身にでなく、前半はほぼウルジーに、後半は既得権のある貴族・司教達にされ、その後の結婚問題が起きる前にめでたしめでたしの終幕です。

 

以下の論文は、宗教対立やその矛盾を指摘していてすごく面白かったです。全く思い至りませんでしたが、この劇はカトリック勢が没落しプロテスタント勢が台頭するものでもありつつ、劇中にアン・ブリンの戴冠式とエリザベスの洗礼式という2つのパジェント(儀礼での行進)が入っていて、この視覚に訴えるパジェント自体はカトリック的なので逆説的で曖昧さが提示されるそうです。

 

丹羽佐紀「『ヘンリー8世』における「真実」の意味をめぐって -イングランド宗教改革との関連性-」

 

ストラトフォード・フェスティバル、マーサ・ヘンリー演出版

いつもながらSFはありがたくもプログラムも公開してくれていて、プログラム表紙のヘンリー8世を見ると有名な肖像画にも似せつつ、演出意図ではその前の若く魅力的な彼を見せようとしたと書かれています。衣装も音楽も当時の雰囲気の再現するような上演で、アン・ブリンのキャラが工夫されていた以外は、割合戯曲に忠実な演出だったと思います。

https://cdscloud.stratfordfestival.ca/uploadedFiles/Whats_On/Plays_and_Events/Plays/2019/Billy-Elliot(1)/About_The_Play/Henry%20VIII%202019%20House%20Program.pdf

https://cdscloud.stratfordfestival.ca/uploadedFiles/Whats_On/Plays_and_Events/Plays/2019/Billy-Elliot(1)/About_The_Play/Henry%20VIII%202019%20House%20Program.pdf

 

ヘンリー8世』が宗教的な対立もこっそり忍ばされつつ、アン・ブリンとの結婚と生まれた娘のエリザベスの洗礼という2つのパジェント(儀礼での行進)をクライマックスにする芝居ということなら、SF版はいかにも当時のパジェントの感じが出ているかもしれません。本当の意味で当時の再現かもわかりませんが、その時代の雰囲気は感じます。

 

ただ、アン・ブリンは史実(として知られること)に近づけられています。戯曲台詞上ではアンは王妃の地位など望まない慎ましい女性に描かれていますが、台詞はそのままに野心家な設定になっています。そのため“台詞ではこう言っていても、本音/本当はね……”という、台詞(戯曲)の裏を彼女が意識させることになります。また、大司教クランマーのキャラは特筆するところもないように思え、なぜヘンリー8世が彼を信頼し庇うのかよくわからないままで、ここも不自然な感じを抱かされます。その不自然感が解消されないまま洗礼式でクランマーからエリザベスについての美しい予言が語られ、それが無理矢理感と違和感につながります。

 

そうすると祝祭的なクライマックスのはずのパジェントが、計算高いアンの結婚(アンについては野心家設定でなくても後の悲劇を考えると微妙な気持ちになるかもしれません)、よくわからないままの流れでのエリザベス祝福予言、と、少なくとも私には、かなり気持ち悪く感じられました。演出意図とは異なると思うものの、私には、結果的に最初に書いたような不自然さが浮き出るような、“All is True”の皮肉を思わせる作品に感じられました。

 


www.youtube.com

 

彩の国さいたま芸術劇場吉田鋼太郎演出版

彩の国版はむしろ“物語の真実性”を感じさせる作りの印象です。不自然に思えるところを最小化し、戯曲の筋そのものに集中させそれを面白く見せてくれたと思いました。コスチュームや音楽も、16世紀当時のヘンリー8世をあまり意識させないような19世紀っぽいイメージです。(下のリンク記事に写真があります。彩の国シェイクスピア・シリーズの他作品でも時代再現的ではない衣装や装置が多いので、それを狙った衣装や音楽ではないかもしれませんが。)

 

prtimes.jp

 

赤ん坊の泣き声がするなか、複数の女性とベッドの中にいるヘンリーという幕開きで、次いで遠方から王妃や臣下がぐるっと取り巻くように登場します。臣下達の前で床入りしている訳でなく、彼らが実際にいるのではない雰囲気です。戯曲にはない場面で、ヘンリーは快楽に溺れているようには見えず、むしろ嫡男がいない焦りや臣下達からどう思われているのかといった彼のオブセッションのようなものが最初に示される形です。その後、ヘンリーは臣下にコントロールされていた王から臣下をコントロールする王に成長し、それが彼の不安や焦りを解消し、自分や女児誕生を肯定できる存在になっていくように見えます。この上のあらすじを読まなくても大丈夫なように書いているつもりですが、あらすじを読んだ方は、太字部分を辿るとそんなふうにみえると思います。戯曲内のその筋を明確に提示している感じがしました。それはきれいごと部分なのですが、阿部寛さんのヘンリーがそこを真実味のある物語にしてきっちり見せてくれた気がします。

 

少しあらすじ・演出ネタバレ的ながらこの辺まではいいかなと思って続けて書きます。例えば、ヘンリーはキャサリン王妃との離婚裁判を自ら進めておきながら彼女を愛しいと言い、キャサリンが(裁判を主導するウルジーに特に)怒ってローマ法王に訴えると言って退出した後にこう語ります。「好きにしろ、ケイト。この世のどこかに、お前に優る妻を持つと豪語する男がいたら、そいつの言うことは何ひとつ信じるな」「世の王妃たちの王妃はお前だけだ」(松岡和子訳・ちくま文庫版)。阿部さんのヘンリーは、彼女に惚れ惚れするように愛し気に言います。でも、兄の妻になるはずだったキャサリンを妻にしたので罰が下って嫡男を得られず苦しいとか、彼女への愛を上回る義務や倫理があるみたいなことも言います。史実と合わせて考えると、この内容はキャサリンとの結婚を無効としアン・ブリンと結婚するための表向きの理由でいかにもきれいごとです。ですが、阿部ヘンリーは、一寸ギリシャ悲劇を感じさせるくらいの勢いでここを語り、彼女を本当に愛して尊敬もしているんだろう(またその前にアンに惹かれたのも多分それはそれで本気だったんだろう)と思え、ここで語られる苦悩や運命が作品の核にも見えてきます。キャサリン宮本裕子さんがいかにも王妃の雰囲気で美しく毅然としていたり、アンの山谷花純さんがきれいでも格下の世間知らずのお嬢様感を出していたりといった相乗効果もあると思います。

 

ちくま文庫版『ヘンリー8世』の河合祥一郎先生の解説からは、作品上容易とは言えないものを工夫しただろうことが想像されます。「本作の中心にいるヘンリー8世その人の人間性があまり見えてこない」「王の2つの身体のうち、公的身体は描かれているが、私的な身体が描きこまれていないために、私人としての像が見えてこない」「作者たちが書きたかったのは(中略)ヘンリー8世の絶対権力のそばから落ちていく者たちの悲劇であり(中略)『良き時代』を言祝ぐ劇にしたかったのであろう」。

 

「この劇においてヘンリー8世は絶対的な存在であればよく、彼自身が人間的に苦悩したり成長したりする必要はないのである」として、名優達が演じたがったのはウルジー役だとも指摘されています。でも、この上演では、(ウルジーは勿論すごく目立つしおいしい役になっていたものの)苦悩したり成長したりするヘンリーになっていると思いました。SF版の方は河合先生の解説通りの印象ですが、彩の国版はヘンリーに苦悩や動きが見える気がすることでもっと物語のうねりを感じます

 

その主筋に、ヘンリーが未熟だったために犠牲になったバッキンガム、ヘンリーの焦りから嫡男を求め離婚させられたキャサリン、離婚につけ込んで漁夫の利を得ようとして転落したウルジーの3人の悲劇が絡む、というわかりやすい形にもなっていると思います。また、ウルジーの裏切りの件でヘンリーは臣下達の裏を考えるようにもなり、キャサリンやウルジーがいなくなったことでヘンリーに権力が集中していったようにも見えます。

 

それぞれのキャラが立っているのも物語に入りやすくしてくれます。吉田さんのウルジーは王の前では追従的で俗っぽく裏では権力欲を見せ、比較的わかりやすく悪役感が出ています。失脚するクライマックスには人間味も見せるものの、これも戯曲の中にあるペーソスに注目させる形です。谷田歩さんのバッキンガムはプライドが高く直情的で、鈴木彰紀さんのクロムウェルは腹黒なインテリ策士、そして金子大地さんの司教クランマーは見ただけで若くて一生懸命で、理想があっても世慣れていない雰囲気があるんですよね。金子さんはまだ舞台慣れしていなくて“……頑張って”と思う一方、それ自体がある意味キャラとしての味になっている感じで、贔屓目かもしれませんが初舞台の人の使い方としてもうまいなと思いました。(再演で余裕が出ていたら、若くて清廉な感じはそのまま最終場面で少し貫禄も出てそれもいいだろうと思います。)王として成長したヘンリーが、将来のある若者が潰されないように目を掛け、そのクランマーが幼子エリザベスに希望を託す感じにもなります。

 

この後は更にあらすじ・演出ネタバレになるので本の紹介と画像を挟みます。

 

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“A most unspotted lily shall she pass, To the ground, and all the world shall mourn her.” Henry Ⅷ

 

演出的に面白かった1つは、離婚訴訟問題で、キャサリンがそれまで敵対していたウルジーに不躾を詫びて、ウルジー達の思い通りにさせると言う場面です。ウルジーが、自分はキャサリンの味方だと説得する台詞で、吉田さんのウルジーはキャサリンをがっつり後ろから抱きしめます。多少とも色っぽくなっていることも含め、『リチャード3世』で、アンがリチャードの求婚を受け入れてしまう場面のようだと思いました。

 

その前の場面でキャサリンは自分が年齢的に子を産めなくなったので離婚されるのだろうと間接的な表現で語ります。大国スペイン王の娘でもあり、政治的な判断ではヘンリーを上回るように描かれている王妃が、女としての年齢で評価されそんな仕打ちを受けるーーこの場面前半では気丈に振る舞うキャサリンですが、多分プライドずたずたです。ウルジー達の思うようにさせないと彼に反論していくうちに、自分を「みじめな女」「私を迎えるお墓もなさそう」とまで言って、取り乱した感もあるんですよね。その時にウルジーが後ろから抱きしめ、顔を寄せて私たちはそんなことはしませんと言う訳です。枢機卿のくせに男臭く囁くように脅すように「私どもの立場が、職務が、それに異を唱えています」と言うのも皮肉に見えて面白い。女性としての弱みやおそらく気づかないまま取り乱したところを見せてしまったことにキャサリンが気づくことにもなりそうですし、それを抱きしめて窘めることで、キャサリンを一層混乱させ、判断力を失わせて、ウルジーに従うと言わせます。ウルジーのやり手なところだけでなく、キャサリンの置かれた境遇も上手く示す演出の気がしました。

 

で、ウルジーは二枚舌的に(特にこの演出ではそう見えます)キャサリンの離婚に反対する書簡をローマ法王に送り、国内では離婚可否を問う裁判を行おうとしています。キャサリンを手玉にとり宮廷で対立する者を全て押さえ込んだウルジーは、満足気に自宅に戻って寝室に向かう訳ですが、ここからがもう1つ面白いところでした。

 

ベッドでは誰かが寝ていて、“枢機卿のくせにキャサリンにあんな迫り方をするって、やっぱりベッドの相手がいたのか”と思っていると、その相手はクロムウェル。そう、ウルジー×クロムウェル設定の演出です。しかも、この後、ウルジーローマ法王に宛てた離婚反対書簡とやりたい放題に私腹を肥やした彼の財産目録が間違ってヘンリーに届き、ウルジーは失脚するのですが、この演出ではそれを仕組んだのがクロムウェルにもなっています。失脚して貴族たちから僧衣を剥ぎ取られて酷い扱いを受け、その段でウルジーは手紙を入れ替えたのがクロムウェルだと気づきつつ、それを許し諭すように(という吉田さんの演技)「野心は投げ捨てろ」と言います。ウルジーのその言葉でクロムウェルは大後悔(鈴木さんの演技)という流れです。転落したウルジーの心境の変化かもしれませんが、あれですね、クロムウェルは所詮カラダだけの関係と思ってウルジーを踏み台にしたら、気持ちを見抜かれそれでも許されるほど愛されていたとわかった、みたいな(←主観たっぷりです)。

 

戯曲上ではクロムウェルは、物語にはあまり絡まず、有名だから登場したように見えるやはり「人間性があまり見えてこない」役だと思います。仕えたウルジーの失脚場面で共に嘆き、枢密院会議でクランマーを庇うだけです。

 

彩の国版では最初に登場するウルジーの秘書官もクロムウェルにされているので、バッキンガムを陥れるのに助力した前半から、クランマーをただ1人擁護する最終部へと変化することになり、その間に裏切りと後悔のエピソードが挟まれる形になります。ウルジークロムウェルに語る「悪意の舌を黙らせろ。正しくあれ、怖れるな。(中略)その結果倒れるなら、クロムウェル、お前は祝福された殉教者として倒れるのだ」という台詞は、戯曲上では単にクロムウェルのその後を予言するだけのものに見えますが、彩の国版だとここでクロムウェルが改心してそう行動したと思えます。クロムウェルについてはSFのアン・ブリンどころではない工夫で、ウルジーとの対話場面ではやはり台詞と本音は違います。なのですが、こちらは史実と戯曲のずれの方に意識は向かず、物語をドラマティックにして流れを感じさせ、作品世界への求心力を高めているように思います。