『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

PARCO劇場・森新太郎演出+篠田正浩監督+SPAC・宮城聰演出、泉鏡花作『夜叉ヶ池』感想

(今回もシェイクスピアではないです〜。)


PARCO劇場、森新太郎演出、森山開次振付、勝地涼入野自由瀧内公美那須凜出演、2023年上演、CS衛星劇場放送。
篠田正浩監督、坂東玉三郎加藤剛山崎努出演、1979年。
SPAC、宮城聰演出、奥野晃士、たきいみき、永井健二、布施安寿香出演、2021年上演、2022年BSプレミアム放送。

 

PARCO劇場の森演出版がとてもよかったので、1人『夜叉ヶ池』祭りしちゃいました。録画したままになっていたSPACの宮城聰演出版を観て、篠田監督の映画も再見。当たり前なのでしょうが、それぞれ方向性と強調点が異なっていて、鑑賞後の感覚も違うものですね。

 

PARCO劇場・森演出版は、9月9日に再放送があります。

www.eigeki.com

 

あらすじ

その昔、村人たちは夜叉ヶ池(やしゃがいけ)の竜神と約束を交わした。「日に三度、鐘をつくこと。さもなければ、竜神は池を飛び出し、大水で村を池の底に沈める・・・」。
村を訪ねてきた山沢学円は、失踪した学友の萩原晃が村の娘・百合を妻としてその村の山奥で鐘つき役を引き受けていることを知る。一方、約束により池を離れられない夜叉ヶ池の主・白雪姫は、山向こう千蛇ヶ池(せんじゃがいけ)の恋しい若君に会いたい一心で鐘を壊そうとしてーー。
そんな中、日照りが続いた村では、村人たちが百合を生贄(いけにえ)に雨乞いをしようと企んでいた。(SPACの公式サイトから)

夜叉ヶ池(やしゃがいけ) | SPAC

 

原作戯曲は青空文庫でも読めます。

泉鏡花 夜叉ヶ池

 

異界の場面などはやはり舞台向きなのだろうと思います。森版宮城版とも、異界を演者のパフォーマンスで作り上げていたのがよかったです。森版では、森山開次さんが振付を担当し、舞踏的で(←正確にはわかりませんが)、また見せ物小屋的な猥雑な方向で和物っぽい雰囲気です。宮城版は比較するとコンテンポラリー風、蟹の衣装などはあまり和を意識させず、白雪姫は打掛的な衣装でも髪は金で、少し和から外れることで人間界と違いを出している気もします。篠田版映画はもちろん玉三郎さんの歌舞伎風白雪姫を堪能できますが、こうしたパフォーマンスの楽しさと比較すると特撮での作りがやや仇になった気もします(偉そうな物言いですみません)。

 

鏡花の台詞の美しさを楽しめたのも、舞台の森版、宮城版の方でした。篠田版映画は、白雪のいる異界の方ではそれが生かされているものの、異界と人間界の差を見せるためか、かなり台詞を改変しているためか、人間界での台詞は言葉の美しさやリズムのよさを敢えて消している感じがします。

 

宮城聰さんは鏡花の今作が今日的であると話しており、篠田正浩さんも第二次世界大戦と絡めてそれを示唆しています(それぞれの箇所で動画や記事をリンクをしています)。この3作それぞれが、今日的含意を引き出しているようにも思いました。このように見せてもらえると、この作品が村の因習批判込みの幻想御伽噺というだけでなく、自然との関係も、盟約も、短期的利益優先も、集団という名の強者優先・弱者犠牲も現在性をもつ寓話に見えます。晃や学円は伝承を信じる一方で、インテリでよい意味で個人主義的でもあり、また実は村のことも長期的に考えて村人を説得しようとしても、村人にはそれが自分勝手な理屈に見えています。政治家はそれを「気の早いものは国賊だと思うぞ」「人民蒼生のためというにも、何時でも生命を棄てる」とまで言う全体主義的・反知性主義的な人物に描かれてもいます。村の人々は、晃とは別の因習を非合理的に信じていて、日照りで苦しんでいるので仕方ない面もあるとはいえ近視眼的です。晃と百合の抵抗が胸に迫る状況って、なんかもう、やだ……と思うくらい、やるせなくもありますね。

 

それぞれに少しずつ他と比較した感想は入れていますが、3つ読みたいところだけに飛べるように目次をつけて画像を挟みます。

 

PARCO劇場、森新太郎演出版

stage.parco.jp

 

最初の萩原晃、百合、山沢学円の場面は、3版のなかで一番私の戯曲イメージに合ったというか、戯曲世界がすっと立ち現れた感じがしました。同時に戯曲での台詞の意味をわからせてくれるものでした。

 

まず、勝地涼さんの萩原晃がとてもよかったです。前半の萩原晃の台詞での百合への優しさや揶揄いながら愛を語る人物像にしっくりくるのに加え、明るくやや軽い雰囲気がまだ若い男だと思わせます。鏡花の時代としては、晃はおそらく優しく穏やかで愛情を示す夫として描かれていて(今だとそれでも亭主関白なところも感じますが)、山沢学円が「お睦まじい」とか「出懸に、キスなどせんでも可いかい」と言う空気が勝地・晃にはあります。一方、愛は確かだけれど、このままいなくなってしまうのではないかという百合の不安がわかる感じもします。そして(ストーリー・ネタバレ的になりますが)、その百合の不安を打ち消す形で、彼女の危機を晃が第六感的に察して戻ってきて、彼の熱さがわかる場面も戯曲の展開に沿ってよいのです。勝地・晃は百合への愛しさが根底にあり、「跣足(はだし)で来い。茨の路は負(おぶ)って通る。」という台詞がとても嵌ります。個人的には映画の加藤剛さんの晃より、こちらが私内戯曲イメージとも好みとも合いました。

 

入野自由さんの学円は、何より晃との再会を心から喜び、晃の選択にもすぐ理解を示す暖かさが感じられます。晃と学円の親しさや信頼もわかり、晃「そう顔を見るな、恥入った。」学円「すると、あの、……お百合さんじゃ、その人のために、ここに隠れる気になったと云うのじゃ。」の阿吽の呼吸感がとてもよいです。

 

百合の瀧内公美さんは美しく、楚々して大人しやか。でも、聡明で学円とのやりとりでも対等感があります。玉三郎さんの百合にはどこか妖しさがありましたが、瀧内さんはもっと穏やかで、場面にある清流のような(この舞台では見立てになっていて舞台にある訳ではありませんが)、癒される雰囲気です。この百合だと、彼女に蛇の鱗があったという村人の噂は偏見によるものに思えます。

 

異界世界が舞踏的、見せ物小屋的な猥雑さがあると上でも書いたように、那須凛さんの白雪姫は人外な化け物っぽさがあり、台詞の語りも素晴らしかったです。白雪姫は玉三郎さんの歌舞伎的な美しさの印象が強かったので、和風でありつつ全く別方向の作りにできるのか、と思いました(その前に宮城版・たきいみきさんもまた別な印象の白雪を作っているし、他の上演もありますが、なにしろ森版が2番目に観たものだったので)。「人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か」の台詞で、荒ぶる自然を感じさせる奔放な姫です。

 

百合と白雪については、玉三郎さんの同役と逆の印象かもしれないと思いました。玉三郎さんの百合はおっとり清らかでも得体の知れない魔性の雰囲気があり、白雪は、人間より上位の天の理のような崇高さと不遜さがありつつ、恋に生きると宣言するむしろ了解可能な女性にも思えます。こちらの瀧内さんの百合は不当な抑圧と差別の対象になって翻弄される女性で、那須さんの白雪は何をしでかすかわからない“了解の外にある自然”で、力の暴発をかろうじて鐘をつく約束で抑えられている、そんな感じがします。

 

また、森版の異界は、那須さんの白雪以外は、姥も含め男性が演じていて、これは異界キャストが全員女性のSPAC宮城版と逆になっています。女性キャストがもう少し入ってもよかったんじゃないかと思う一方で、抑圧された百合と対象的な荒ぶる神を周囲から支える効果はあったかもしれません。

 

百合の犠牲的悲劇が、白雪による災害と解放に転化する輪廻的・因果的クライマックスが見事です。赤い布が客席を覆って抜け、洪水と業火が掛けられている感があります。最後は鏡花のト書きに忠実に、百合と晃が穏やかに鐘のところで微笑み合い、学円が合掌する終幕です。忠実だからよい、ではなく、この通りにすると静謐で詩情のある終わりになるのだと思いました。

 


www.youtube.com

 

写真AC

 

篠田正浩監督の映画版

こちらはamazon prime videoでもyou tubeでも観られます。
篠田・映画版は改変やオリジナル部分もあって、ネタバレ的にもなりますのでご注意下さい。

 

かなり加筆改変もあり、また映像のみで説明が足されるようなシーンも結構あります。おそらく山沢学円という外の人の視点を強調していて、山崎努さんの学円の出番も多くなっています。冒頭に学円が旅をし、干魃を目の当たりにする場面や村での習俗が描写される場面は、もしかしたらパゾリーニあたりを意識したり影響を受けたりしているのだろうか、とも思ったりしました。篠田監督が「泉鏡花はとても日本的な作家だと思われていますが、『夜叉ヶ池』も『天守物語』もギリシャ劇に似ていて、混沌とした世を描き、人間たちに天罰を下す神が出てくる。」と言っていることからもそんな連想をしました。

 

natalie.mu

 

同時代制作の鈴木清順作品とも共通するような、耽美的かつ不可解な印象もあります。

 

こうした映像描写に、冨田勲シンセサイザー音楽はあまり合わないように私には思えましたが、異世界感・不思議感を演出するものだったのでしょう。

 

記事の最初の方でも書いた通り、人間界での台詞は改変も多く、また戯曲のままの部分も日常会話的な語りになっています。この辺は個人的にはやはりもったいない感じもしました。以前、舞台で玉三郎さんの鏡花の『高野聖』を観た時は、台詞の美しさと自然なやりとりに聞こえる心地よさを楽しんだ記憶がありました。でも、この映画の白雪の台詞はリズムに乗ってよいのに、通常の会話的にされた百合の台詞だと(この時期の?)玉三郎さんが必ずしも口跡がいい訳でないことに気づいてそれも意外でした。

 

篠田版では、百合が学円を実際に追い返し、それを晃が非難して後から学円を探しに出るという展開になっています。元戯曲では学円が去ろうとすると晃は内から出て声を掛けます。戯曲でもそこで百合が晃に縋がり彼が学円と共に去ってしまうのを恐れるので、それを強調した改変かと想像するのですが(もしかしたら鏡花の戯曲に別版があるのでしょうか)、自分がすぐに表に出ずに百合を責める晃に気持ちが引いてしまいます。学円が「出懸に、キスなどせんでも可いかい」と言う台詞はなく、そういう睦まじさが加藤剛さんの晃にはあまり感じられません。敢えてそういう風にしたかもしれないものの、2つの舞台と比べると篠田版の晃が私にはあまり魅力的に見えないのです。

 

玉三郎さんの百合がおっとり清らかでも得体の知れない魔性の雰囲気があるのは上で書いた通り。こちらは、百合に蛇の鱗があるかもしれない気もして、百合は美しいけれど常人とは違う「魔法つかい」として、晃を「物語」に留めた存在になっていると思います。玉三郎さんは以下リンクのインタビューで、「百合と白雪がいて一つの魂」と、鏡花が百合と白雪を1人2役前提で書いただろうと言っています。その意味は、この世のものでない不思議な力を両者が持っているということではないかもしれませんが、玉三郎さんの百合は境界的な存在の気がするのです。『高野聖』の「女」も連想させるような風情もあり、敢えて学円の台詞も足され、晃が百合に囚われたような作りにもしています。「キスなどせんでも可いかい」はない代わりに、別箇所でキスシーンがあり、それは加藤・晃が表面には見せなかった「睦まじ」さのようでもある一方、晃が彼女に囚われる表現のようにも思えます。

 

www.yomiuri.co.jp

 

篠田版の晃は、百合に囚われて親と世の中を捨てたことへのある種の愛憎というか葛藤を強調しているように見えます。晃は「年に老朽ちて世を離れた、と自分でも断念(あきらめ)」と白髪の仮髪を被っており、そこからはそんな葛藤も窺えますが、これが強調されると、私には、原作の晃イメージよりも『舞姫』の主人公太田豊太郎っぽい印象になるんですよね。山崎さんの学円も、この2人の状況に理解を示すのではなく、夜叉ヶ池まで晃を連れ出して逃げるよう説得したりします。

 

もちろん晃も学円も逃げずに百合の危機的な場面には戻ってきて、その身代わりにもなると言い出す訳で、意外性を狙った展開にしたとも、悩みと向き合った後に良心に従ったことを強調したとも考えられます。でも、舞台版と比べてしまうとなんだか恋や愛より、晃や学円の男性の義の方に寄っている感じがするというか。映画では「胸騒ぎ」がしたからでなく、実際の騒ぎで彼らが戻ったのも残念なところです。

 

玉三郎さんの白雪姫は、これも上で書いたように人間より上位の天の理の体現者的でもありながら、その高貴な存在が恋に身を焦がしているように見えます。『天守物語』の富姫との繋がりを感じさせるのはもちろん(もちろんと言っていいかはわかりませんが)、玉三郎さんだと鐘を落とそうとするところで清姫を思わせ、鏡花自身がそのモチーフを入れているかもしれないとも思えました。毒蛇や龍の喩えも出てきたり、百合が蛇とされたりしますし。でも、wikipediaによれば、夜叉ヶ池の龍神伝説と「ゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(Die versunkene Glocke)が元ネタ」だそうですね。

 

夜叉ヶ池 (戯曲) - Wikipedia

 

最終部の洪水シーンはかなりリアルというかすさまじい描写に思えます。これは観られないという方がいるかもしれません。最後もその惨状を学円が見つめる終幕です。ここもある意味最後のト書き「一人鐘楼に佇ずみ、水に臨んで、一揖し、合掌す」の改変・解釈かと思いますが、一揖・合掌する鎮魂者というより、愕然としながらもこの災禍を語り継がなければいけない目撃者という印象。玉三郎さんの場面は耽美でも、割合骨太な感じもします。

 

高野聖』『天守物語』も10〜11月に上映されます。

www.shochiku.co.jp

 

Unsplash Kyla Flanagan

SPAC、宮城聰演出版

spac.or.jp

 

SPACのtrailerやNHKBSプレミアムでの放送の際に、演出の宮城聰さんは『夜叉ヶ池』の解釈や演出について語っています。trailerでは、自然破壊がテーマの現代的な戯曲であり、今の私達の行動が問われるような内容でもあるとされています。BSの放送時には、これが鎮魂の話で、「これは僕の妄想なんですけど」という断りを入れつつ(←宮城さんが妄想と使っていたのは嬉しかったです)、鏡花には具体的な鎮魂の相手がいたのではないかと思えたと話されていました。そこから、こんな話だと考えて演出したそうです。文明に危機感があり自然との共生に理想を抱いた民俗学者の青年晃は、鐘撞として百合と暮らす生活にこそ意味を見出していた一方、村のコミュニティに2人は溶け込めず心中した。そんなことがあった村に別の民俗学者が来て2人を鎮魂し、その彼の頭に浮かんだのがこの物語である、と。

 


www.youtube.com

 

そのため、宮城版では最初に晃と百合の心中を示唆するシーンが示されます。このシーンは、私には、戯曲最終部で、亡くなった晃と百合が新しくできた湖の底で微笑み合うとするト書きとも重なる気がしました。この演出のためか、序盤は2人共がこの世のものでない感じというか、感情が読めない風情を感じます。晃(永井健二さん)は学円(奥野晃士さん)との会話の中で、百合(布施安寿香さん)は村衆との会話の中で、その考えや心情が段々わかっていく、生きた人になっていくような作りに見えました。心根が美しく、この物語内では芯の強い2人という印象です。宮城さんの「心中」という解釈からすれば芯が強い2人というのは逆説的かもしれませんが、学円が2人の鎮魂として考えたストーリーの中で心が美しく芯が強いのは十分ありだろうと思いますし、心中だとしても自分達の考えを貫いたとすれば芯が強いと考えてもよいのかもしれません。

 

宮城版の小さな改変箇所で、百合が歌う子守唄には「ねんねんころりよ」でなく小泉今日子の「遅い夏」が使われ、最後もこの歌になっています。最初は違和感があった一方で、私はこの歌を知らなくて唱歌っぽく聞こえ、聞いているうちに新しい西洋音楽・文化が古い伝承・因習をもつ村に入り込んだ風でいいなと思えました。西洋音楽も普及する都会から来た晃が百合に教えたという私内の妄想になりました。

 

たきいみきさんの白雪はなんだか可愛いらしいです。「人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ」と、恋に夢中で、道理を解かれても耳に入らない若い姫様の感じです。宮城版の鯉と蟹の動きは、コンテンポラリーの感じもしましたが、最後の方は異界の白雪達皆が打楽器を演奏し、その太鼓的なリズムに和物っぽさを感じました。

 

SPAC宮城版は異界の乳母はもちろん、鯉、蟹、鯰皆女性で、森演出版と逆です(他の眷属は出てこず見立てになっています。森版は乳母も椿も男性が演じていて、元戯曲では鯉、蟹、鯰が男性設定)。この女性の配役も、前半では異界や姫の可愛らしさに繋がって微笑ましく観ましたが、これが更に効果をもつのは後半です。百合が人身御供にされそうになった時に、白雪がかつての人身御供だった話が明らかにされ、宮城版だと、全体のために犠牲になれとする論理=男性(「妻子を刺殺して、戦争に出るというが、男児たるものの本分」)、犠牲にされた人身御供で今や人間のことなど知るものかという白雪=女性、という対比がくっきりする気がします。森版の異界が“荒ぶる自然”の雰囲気だとすれば、宮城版は、皆のためという名目の強者の論理=男性性、に対抗する、私的な恋=女性性、が打ち出される感じです。私的な恋を大切にする晃も男性なので、これは私の強引すぎる解釈かもしれません。ですが、晃はその男性性に逆らう人、犠牲にされた女性に思いが至る人であり白雪のこの話を語るのも晃です。更に、この場面で「八千人がどうしたと! 神にも仏にも恋は売らん」と言う晃の台詞が、白雪の台詞と似ていることに気づかされます。

 

宮城さんの演出が共同体に馴染めなかった2人の心中という物語とされ、それによってということなのか、「国」や「民」に対して自分も「恋」も譲らないという筋も浮かび上がる感じがしました。それまで大人しく見えた布施さんの百合が自害する際にきっぱりと強いのもよかったです。百合が結局犠牲になってしまったというより、そんな争いになっていることへの抵抗に見えるのです。最後の白雪の台詞、「私は剣ヶ峰へ行ゆくよ。……もうゆきかよいは思いのまま。お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね。」は、もう束縛されずに恋人の所に行けるというものであり、私的な恋の勝利にも思えます。