『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

シェイクスピアズ・グローブ『十二夜』(2012年)感想

シェイクスピアズ・グローブのGlobe Player配信作品で、ティム・キャロル(Tim Carroll)演出、2012年版。これは2013年のトニー賞2部門受賞作品だったのですね。

 

Globe Player | Shakespeare's Globe | Watch On-demand

 

少し前にこの作品がGlobe Playerに入ったことを知ったのですが、前記事で書いた『メインテーマは殺人』の中にマーク・ライランスの名前が出てきて、そう言えばと思ってようやく観ました。all-maleの演目で、マーク・ライランスがオリヴィアです! 最初はオリヴィアが出てくるだけで可笑しいんですが、観ていると全く違和感がなくなり上品で可憐なオリヴィアに思えるのが不思議。シザーリオ=ヴァイオラとセバスチャンも白塗りでも、どんどん設定通りの美青年に見えてきます。2人がやっと出会えた後に、マルヴォーリオ関連の騒動がまだ続くなか、ちょこんと2人並んで腰掛けているところなど本当に可愛らしいです。

 

ブロードウェイでの上演前のtrailerです。『リチャード3世』の表示が出てくるのは、ブロードウェイにこの2作品をもっていったためです。

www.youtube.com

 

この版は、なんだか登場人物達全員がおっとり気味で健気で愛おしさがあります。もちろんドタバタもしているのですが、少々天然なキャラ達の喜劇の印象です。恋の切なさも十二分にあります。

 

そして音楽が素敵。音楽CDも出ているくらいなので、おそらくこのプロダクションのアピールポイントでもあるのだろうと思います。CDの説明には、16-17世紀の音楽をアレンジしたものとあり、戯曲の中に出てくる歌の他に、「音楽が恋の糧であるなら」の最初の音楽でダウランドラクリメが、中盤で“Can she excuse my wrongs”が演奏されます。歌は演奏入りとアカペラ部分とがあり道化フェステの演者(Peter Hamilton Dyer)がアカペラでもうまいし、しみじみとした味わいがあってはまり役。このCDは『薔薇王』19話感想の方でも紹介したのですが、この記事ではそれとは別の“Wind and Rain”を記事の最後にリンクします。よさがわかっていただけるんじゃないかと思います。

 

衣装、音楽、ダンス、装置とも、グローブ座での1601年くらいの上演を探求したものになっているそうです。シェイクスピアの時代に女性を演じていたのは少年のはずなので、女性役の年齢こそ違うものの、当時はこんな感じだったのではと思えるような作品でした。

 

player.shakespearesglobe.com

 

特に印象深かったりよかったりした箇所をとりとめなくこの下に書きます。ネタバレして困る作品ではないと思いますが、演技・演出のやや細かい箇所に触れますので、一応画像を挟みます。ネタバレを避けてフェステの歌だけ聴く方は、画像クリックで歌まで飛びます。

 

Image by TanteTati from Pixabay

 

シザーリオとオーシーノー

庇護者的なオーシーノー(リアム・ブレナン(Liam Brennan))と、少し幼さを感じるシザーリオ(ジョニー・フリン(Johnny Flynn))という感じでした。フリンの年齢的には青年のはずですがこちらのシザーリオはほわんとした雰囲気もあり、オーシーノーはかなり年上で落ち着いているのでそう見えた気がします。

 

小姓として仕え始めたシザーリオ=ヴァイオラが、まだ男装に慣れていないので剣をうまくつけられずに落としてしまい、オーシーノーが微笑んで主人なのに跪いて剣をつけてやるところに、すごく萌えました。シザーリオもドキドキしている風。オーシーノーの人柄も、年上男性が年少者に愛情をかけている感じも出ますね。

 

オーシーノーは穏やかで、「おれにたいする女の愛と、オリヴィアにたいするおれの愛とはとうてい比べるわけにはいかぬ」(小田島雄志訳・白水社版、以下同じ)と、シザーリオと議論するところもあまりマッチョな感じはしません。ですが、そんな彼が、オリヴィアに拒絶され彼女とシザーリオを争う時には、シザーリオを人質に取るようにその首筋に剣を向けます。そんな風にされてすらオーシーノーに着いていくというシザーリオの気持ちが強調されると同時に、おそらくオリヴィアには、シザーリオは脅されたからオーシーノーに従うように見えることになり、複層的に見せる工夫が面白いと思いました。

 

この版では、セバスチャンと出会えた後、シザーリオ=ヴァイオラが男装姿を後ろめたく感じるか少し恥じているようだったのが新鮮で、また、そこで後ずさるシザーリオをオーシーノーがゼスチャーで止めて、セバスチャンに差し向けるところも年長者っぽく感じました。最後のプロポーズも跪いてでした。

 

ところで、知らなかったんですがフリンはミュージシャンなんですね。せっかく歌える人が本作では歌っていなくてなんだか残念ですが、ヴァイオラが「歌も歌える」ので小姓に推薦してと言いながら作中で歌わないのと重なるなと思いました。

 

シザーリオとオリヴィア

オリヴィアの館の訪問場面では、シザーリオとオリヴィアのやりとりが複層的になっていることが示されていたと思います。オリヴィアがオーシーノーの求愛を断ると、シザーリオは「もし私が主人のあの燃える思いに焼き(中略)苦しみをなめるとすれば、あなた〔=オリヴィア〕のいまの拒絶の意味がつかめないでしょう。どうしても納得できないでしょう」と言います。ここは、オーシーノーがオリヴィアの拒絶を理解できないだろうと言っているようでいながら、オーシーノーに対するシザーリオの想いを語っていることもこの版は見せていたように思います。原文は“In your denial I would find no sense; I would not understand it.”で、オーシーノーがあれだけ求めてくれているのに断るなんて自分だったら理解できないヴァイオラとしては考えられないという意味にも取れそうです。その発言にオリヴィアが「で、あなたならどうなさる?」(Why, what would you?)と問い、シザーリオは「ご門の前に悲しみの柳の枝で小屋を作り、お邸のなかの私の魂にむかってよびかけます。さげすまれても変わらぬ恋を歌にたくし(中略)こだまする山々にむかってあなたのお名前を呼び、おしゃべりな大気までオリヴィアと言うようにしてやります」と答えます。フリンのシザーリオはここで、オリヴィアの方を見ずに想像に耽るように、憧れを思い浮かべるように語ります。「オリヴィア」と出てくるものの、そんな風に愛されるのが自分ならさげすまれても恋を歌う、と、オーシーノーを想う台詞にもなっているように思えたのです。『薔薇王』8巻のアンへの求婚みたいな感じですね。

 

今まで、この台詞は、オリヴィアの挑発にシザーリオが乗ってあるいはそれに対抗して語ったもので、それが期せずしてオリヴィアの心を掴んでしまうものとだけ考えていました。もしかしたら今までもこういう二重性があったのかもしれませんが、そう見えたのは今回が初めてです。そういう含みや、シザーリオとオリヴィアのこの会話のズレを面白く見せてもらったと思いました。

 

こんなことを語るシザーリオにオリヴィアが惹かれ「あなたのお家柄は?」と尋ねるところも、ズレが生じる形になっていました。ここはおそらく原作にそういうニュアンスはなく、演技・演出によるものだと思います。シザーリオの方はその質問に“自分の正体がバレるとまずい”と焦ったように“事情はあってもともかくgentlemanです!”的な返事をし、オリヴィアの方は再度シザーリオに来て欲しくて早まって駄賃を渡そうとし、シザーリオが「使い走りではありません」と怒って出ていく感じかと思いました(プンスカしているようなシザーリオがやはり可愛い)。シザーリオが去ってから、オリヴィアは素敵だと思った相手にまず尋ねたのが「家柄は」だなんて情けない、馬鹿な質問だという風に頭を抱え、でも本当にgentlemanだとうっとりするのです。2人ともがもだもだした感じがよかったです。

 

こういうニュアンスの作り方が全体にうまい作品だなと思いました。

 

マルヴォーリオへの罠

マルヴォーリオを罠にはめる話は、展開としては割合穏健であまりビターにならない作りで、初演を思わせるこの舞台にはそれが合うと思いました。

 

マルヴォーリオが手紙を読む場面はやはり観客を引きつけますね。これは他の版でもそうですが、拍手が起きたり盛り上がっていて、観客のリアクションを想定したシーンなんだろうと思いました。

 

一方、初演を思わせるような舞台だからか、マライアがマルヴォーリオを憎々しげに貶していたせいか、夜中に歌って騒いでいた者達をマルヴォーリオが叱る場面でのピューリタンのジョークはすごいなと遅まきに気づきました。宗教対立が深刻で、ピューリタンが演劇や音楽に否定的だった時代に攻めたジョークだと思いました。生真面目で居丈高なマルヴォーリオがピューリタンみたいだとマライアが言い、それを受けてサー・アンドリューがそれなら犬のように蹴ってやると罵ります。ですがその台詞の直後に再度マライアが、マルヴォーリオはピューリタンでなく「そのとき次第の日和見主義」(“a time-pleaser”)で「もっともらしい言葉を(中略)吐き出しているだけ」と、ぎりぎりのところでピューリタン自体とは関係ありませんと回避しているんですね、すごい。面白くて検索してみたら、「そのとき次第の日和見主義」「もっともらしい言葉を(中略)吐き出しているだけ」の台詞自体がピューリタン批判だとか、マルヴォーリオいじめ自体がピューリタンへの揶揄になっているという解説もありました。ただ、ピューリタンを蹴とばすことについて、“I have no exquisite reason for't, but I have reason good enough.”と理由がない蔑みの愚かさを示唆する台詞もあり、少なくともこの版では、この部分だけ際どいジョークの印象でした。

 

今回ここに気づいたのは、映画『シェイクスピアの庭』を観ていて、シェイクスピア本人とピューリタンである娘婿との嫌な関係を思い出したせいもあったかもしれません。というより、娘婿がピューリタンだったのは事実かもしれないものの映画の娘婿との嫌な関係が『十二夜』参照だったのかもとも思いました。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

道化フェステの“Wind and Rain”です。

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“Come away Death”を『薔薇王』感想記事の方でリンクしています。

baraoushakes.hatenablog.com

 

 

 

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