『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター『ジュリアス・シーザー』感想

ニコラス・ハイトナー演出、ベン・ウィショー主演、ナショナル・シアター/ブリッジ・シアター、2018年。NTatHomeで配信中です。

 

期間限定の配信やTV放送などがかなりあって、そちらを優先的に観ていて今頃になってしまいましたが、期待以上に面白くて大満足です。

 

少し前に観たロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(以下、RSC)の『ジュリアス・シーザー』がすごくよかったので、“ベン・ウィショーのブルータス観たすぎるけど、比べてあまり楽しめなかったらどうしよう”などと無用の心配をしていました。昨年もちょうど、『夏の夜の夢』ハイトナー演出版を後から観た時に同じような心配をして、それが吹き飛んだんですが、今回も全く同様で、むしろ両方観たから更に楽しめた気がします。現代の先進国の政治状況と絡めている点は、ITAのヴァン・ホーヴェ演出とも共通するところがありますが、受ける印象は相当違います。

 

ITA、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、『ローマ悲劇』(Roman Tragedies)感想

 

ハイトナー版『夏の夜の夢』と同じようなイマーシブ(観客参加型?)で、観客がそのままローマ市民になるようで、『夏夢』以上にこの形が生きていたと思います。『夏夢』でも印象的に使われていた、ブリッジ・シアターの高さが変わったり段を作れたりする中央舞台装置が、今回は戦闘シーンで効果的に使われていました。

 

ナショナル・シアター『夏の夜の夢』感想

 

『薔薇王』もそうですが、解釈が面白いと色々書きたくなって今回も長めです。有料配信なので、演出ネタバレは避けた方がいい気もしつつ、NTLiveでの感想も結構出ていますし、解釈が面白いところはネタバレなしで書くのは難しいので、例によって画像を挟んでかなり内容を書いています。画像前のキャストの話くらいまでは大丈夫じゃないかと思っていますが、観る予定の方はTrailerまでにしていただくのもいいかもしれません。

 

National Theatre at Homeで有料配信中で、これだけレンタルもできますし、2本以上見るなら1ヶ月の加入がお得です。英語字幕は出せます。 

National Theatre at Home

 

 


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キャストなど

TrailerやポスターのややQっぽくも見える印象から、ベン・ウィショーのブルータスは、社交性低めの若いオタク的秀才が猜疑心を募らせる感じかと予想したら全然違いました。Trailerではアントニーやキャシアスに比べてかなり若く見え、プロダクションによっては若々しいブルータスが登場するものもありますが、こちらは本編ではブルータスが特段若い感じではなくキャシアス達と普通に同僚同士に見えます。市民から著作にサインを求められていたりして、落ち着いた学者肌の、あるいは学者もしている政策ブレーンといった感じ。演説も上手く知性派のエリートなので、逆に人心を読み誤ったという印象でした(ウィショー・ブルータスは演説が上手いんですよ!)。そうではあっても、Brutus was Caesar's angel”と言われて何の違和感もないブルータスです。というか他版ではほとんど意識が向かず“こんな台詞があったんだ”ぐらいの印象でしたが、今回はそこを耳が拾いました。小田島翻訳版では「寵児」と訳されていて、angelのニュアンスが本来は違うのかもしれませんが。

 

キャシアスを女性のミシェル・フェアリーが演じていたのもとても効果的でした。シーザーとキャシアスが、トランプとヒラリー・クリントンみたいに見えます。こちらのシーザー(デヴィッド・カルダー)の方がトランプより上品で有能そうなものの、赤いキャップを被ってポピュリスト感もあり、一方のキャシアスは敏腕そう。Trailerにも出てくるように“キャシアスは本を読みすぎて陰気でダメだ、太った陽気な男を自分の側に置きたい”みたいなシーザーの台詞があり、そう狙ったと思いますが、これが男を側に置いてオールド・ボーイズ・クラブ的にしたい言葉のように聞こえます。キャシアスの“人気のなさ”に、クリントンが負けたような、女性政治家の嫌われ方を絡めた演出の気がします(特に現状を批判したり主流派でなかったりすると余計に嫌われますよね)。『コリオレイナス』やITAの『ローマ悲劇』など、男性政治家役を女性に置き換えたものはかなりありますが、これは今まで観た中で一番意味を感じました。『夏の夜の夢』といい、ハイトナーはこの辺の感覚が素敵ですね。配役自体が演出になっていたり考察が窺われる気がして、またそれが楽しいです。

 

原作の男性キャシアスも、“面倒な(でも本来必要な)発言をして会議が長くなるから”みたいな理由で遠ざけられたキャラかも、と思えてきました。

 

そしてデイヴィッド・モリッシーアントニーが、ちゃんと“太った陽気な男”の感じです。太ってはいないですが、がっしりしていて陽気そうで、イベントを盛り上げたり、シーザーの意を汲んで采配する、人たらし的政治屋の雰囲気。このアントニーなら、人間関係を優先して逆にそこに足をすくわれた『アントニークレオパトラ』にそのまま繋がりそうです。

 

400年前に紀元前の話を書いた作品が、こんなに示唆に富む上演ができるなんて、読み替えの凄さやそれを可能にするシェイクスピアの凄さを感じる一方、政治や権力って……と複雑な気持ちにもなりますね。この演出はアメリカ大統領選的に見えるものの、「権威の座にともなう害は、力におごってあわれみを捨てることにある」というブルータスの台詞は全く人ごとじゃないです(泣)。

 

ブリッジ・シアターのサイトには、英語ですがキャスト情報が全て載っています。解説などもあってパンフレットのような充実ぶりです。

bridgetheatre.co.uk

 

今回も、この後かなり細々と展開と絡めて各キャラクターのことを書きますので、演出のネタバレOKな方はお進み下さい。

 

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キャシアスとブルータスの危機感

シーザーがローマ市民達に熱狂的に迎えられるシーンの後、シーザーの独裁を懸念するキャシアスとブルータスの会話になりますが、ここでキャシアスがシーザーを貶して、シーザーは渡れそうもない川を泳いで渡ろうとして溺れ、自分が助けたという話をします。キャシアス役のフェアリーは女性だしかなり小柄だし、この台詞はカットかな、と思っていました。ですがそのままで無問題状況判断を誤り根性論で行こうとして失敗するシーザー、無理に思える状況を乗り切ってきたキャシアス、と、ちゃんと比喩に聞こえます。そう聞こえるシーザーとキャシアスのキャスティングです。これまでこの台詞はキャシアスの、自分がシーザーより勝るマッチョ自慢と思っていました。この前のRSCのキャシアスを見てその印象が変わり、今回はこの台詞が、冷静で敏腕な実務家キャシアスを印象づけるものに聞こえました。だからこそキャシアスは、自分が排除されたことに我慢がならず、シーザーの権力拡大を危険視し、理知的なブルータスとは相性がいいように思えます。

 

また、キャシアスは、シーザーが病気をした時ひどく弱気になった話もしますが、カルダーのシーザーは原作イメージより高齢で、その話の後、シーザーが倒れて車椅子で酸素吸入する様子が描写されます(原作では王冠を退けて癲癇で倒れるというややヒステリックな印象を抱かせる箇所)。そんな描写が組み合わされ、弱さのあるシーザーが全権を握ってしまったらというキャシアスの不安に更に説得力が出る気がします。

 

またもや妄想を広げますが、政策通・理論派のブルータス、実務家キャシアス、選挙対策・人心掌握要員アントニー、のような印象です。で、(これは原作通り)ボスまたは同僚のシーザーとは、お互い適材適所で力を発揮して成果を上げたのに、シーザーは変質してアントニーのようなイエスマンだけを側に置き、異なる意見は排除して議会以上の権力を持とうとしているようにブルータス達には見えるといったところでしょう。

 

ウィショーのブルータスは、皆に頼られたからというより、独裁回避のために自分1人でもシーザー暗殺を企てた気がする一方、暴力・殺害は最小限にしたいし、関与するのも志願した者だけに抑えたい、そんなニュアンスを感じます。その理念はアントニーにさえわかってもらいたいし、市民にも説明すればわかってもらえると思っていそうです。でも一方、アントニー暗殺案に反対し“アントニーは何もできない”と言うのには、殺害を抑制したいだけでなく、お祭り男に見えるアントニーをばかにしているせいもありそう……。原作のそうした面が浮かび上がるブルータスです。政策や実務でシーザーを成功させたのは自分達という自負があり、正しいことをすれば人はついてくると知性派エリートが誤ってしまうパターン。キャシアスは実務家な分、アントニーの手腕とその危険性に気づいて警戒している感じがしました。

 

ポーシャ、キャルパーニア

シーザー暗殺計画でブルータスの家に集まる同志も男女・人種のバランスが取れて現代的で、そのことによって、ブルータスの妻ポーシャやシーザーの妻キャルパーニアの、夫を支えることだけを期待される妻の立場を考えさせるものになっています。

 

原作ブルータスは、男同志で話した危ない計画を妻ポーシャには知らせまいとしますが、ポーシャはある程度気づいていて気丈に振る舞い、計画は話さないままながら2人の間には信頼が感じられます(RSCドーラン版やドンマーのロイド版は、とてもよい夫婦関係でした)。ですが、こちらではブルータスは同僚の女性達とは重要な話をするのに、ポーシャには打ち明けないことになり、それでは「妻でなく娼婦」のようだというポーシャの台詞が一層切実です。 “秘密を守る私の覚悟を見て”と太腿を刺して豪胆さを示すシーンで、こちらのポーシャは無数のリストカットの傷をブルータスに見せます。自傷=病んでいるという解釈ですか! でもブルータスがそんなポーシャに精神的負担になる話をできないのか、計画も気持ちも隠すようなブルータスだからポーシャが病むのか、因果関係複雑かもね、と思いました。

 

キャルパーニアについては、原作イメージやこれまで観たものでは、占いを信じてシーザーに出かけないよう訴える強い妻の印象でしたが、こちらでは強気そうではあっても、シーザーよりかなり若いアジア系の美人で、不安があるから行かないでと懇願する可愛い妻の感じ。シーザーはキャシアスを敬遠して、こういうタイプを妻にするのかと思えてしまいます。ブルータスの仲間のディーシャスが、“キャルパーニア様が不安に思う占いの意味は逆”と言ってシーザーを議場に連れ出しますが、ここではディーシャスが、学歴・キャリアがありそうな若い白人の女性設定になっています。シーザーがディーシャスを気に入っているという台詞を使い、やはり美人でイケている彼女にシーザーがデレッとしたりします。キャルパーニアは苛立ちますが、こんなディーシャスに占いの解釈が違うと言われ、原作以上にキャルパーニアが話を続けにくく、シーザーも行かないとは言いにくい雰囲気になっています。

 

ブルータスとアントニーの演説

ブルータス達がシーザーを暗殺した後、現場にやってきたアントニーは、むしろ自分から寛容さや理解を示すようにブルータス達に接し、政治家としてうわてな感じを既に醸しています。「キャストなど」のところで書いたようにブルータスも特段若くは見えず対等な同僚のようではあるものの、ブルータスよりアントニーを年上配役にしたのもその印象を強めます。

 

で、演説なんですが!

ナショナル・シアターは、ブルータスの演説の方を公開していましたよ。

 


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RSC版の感想記事で書いたように、ブルータスよりアントニーの演説の方が優れているらしいのですが、ハイトナー版は、ブルータスの演説の方が上手いくらいなんです、途中までは。ウィショー・ブルータスの演説は、カリスマ的人気の大学の先生の講義のようで、市民の気持ちも掴みます。でも逆に言うと、“皆を自由にするため”と言いながら、上から目線になっているような皮肉も感じます。しかも、市民達は“ブルータスを王に”などと彼の理念とは真逆のことを言い出し、必ずしも意図が伝わった訳ではなく、この時点でブルータスは半ば失敗しています。市民達がブルータスを讃えるように熱狂すると、彼の高潔さやシーザーに対する贖罪のためというより、その熱狂にポピュリズム的危機感を感じて人々を嗜め演壇を降りてしまう感じでした。

 

モリッシーアントニーは、はじめに市民に“何て言ってるんだよー”と言われるような口ごもった話し方で演説を始め、徐々に感極まったように捲し立てていきます。シーザーの遺体を示すあたりからいよいよ本領を発揮して気持ちを煽り、こちらは人々の熱狂を手中にします。弱強五歩格のリズムがあるかどうかは私にはわからず、“煽動的なのはわかるけど、演説はブルータスの方がいいよね”という(シェイクスピアの専門家から見れば間違った)これまでのような印象になりました。RSCの方だと“説明は怪しいだろ、受け入れていいか?!”みたいなニュアンスを感じたのに、こちらのアントニーだと真偽はともかく感情を煽っている気がしてしまうんです。もちろんその前のブルータスの演説がどうだったかということはあるんですが、これは不思議です。モリッシーがやり手感と胡散臭さをうまく出しているからでしょうか。

 

アントニーには「私は雄弁家ではない、ブルータスのような」、「一介の無骨な人間にすぎない」という台詞があるんだと気づきましたが、この台詞の方を生かす方向で、ブルータスを「雄弁家」に、自分を人々の立場に置くことこそがモリッシーアントニーの巧みさです。演出によって、耳に残る台詞が全然違うのも不思議ですね。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

オクテーヴィアス

この後で登場するオクテーヴィアス・シーザーは、キット・ヤングが演じていますが(『夏夢』の一寸反抗的なライサンダーが印象的な演者です)、ヤングは実は冒頭から様々な役で出てきます。確かに脇役ではいくつか掛け持ちしている演者も多いとはいえ、市民役で出てくる時など彼は結構目立っていて、穿ち過ぎかもしれませんが、敢えてオクテーヴィアスと複数の市民の役を兼ねた配役にしたのかもと思いました。

 

シーザーの甥であるオクテーヴィアスは、アントニーに旗頭として便利に担がれたようにも、最後にはアントニーを出し抜いて権力を手中にするようにも見えます。『ジュリアス・シーザー』ではどちらにも取れ、『アントニークレオパトラ』まで入れるとアントニーは彼に打倒されます。1人1人の市民も時々で意見を変えますが、それだけでなく複数の異なる立場の役をヤングは演じています。最後に勝利するオクテーヴィアスが、操られるようにも見えながら、意見を変えて政治を翻弄する人々の象徴にもなっているのではないか、ポピュリズムと権力のあり方をハイトナーは暗示しているのではないかという気もしました。

 

戦闘から終幕まで

もともとシェイクスピアの戯曲の戦闘場面は大抵台詞のみで、それがどう演出されるかも興味を惹かれますが、今回は現代設定なので爆撃や銃撃戦が照明や音響で描写されて、迫力のあるシーンになっていました。舞台の段差も上手く使われ、塹壕っぽく見えたり、監視塔っぽく見えたり、間をジープが走ってきたり、ブルータス陣営側とアントニー陣営側を照明で場面転換する展開もスピーディーです。

 

ただ、そんな迫力のある戦闘シーンですが、ハイトナー版の印象だと、内戦になってしまった段階で、仮にアントニー陣営に勝てたとしてももうブルータスの理念は敗北してしまった気がするんです。原作の古代なら勝利で大義を示すのはありと思うので戦争での勝敗も見どころの気がしますが、ブルータスもキャシアスも必死で戦おうとしているものの、“なぜこうなってしまったんだ”という拭い難い絶望感がありそうです。戦闘時に賄賂を取る者も出てくるし、その件や誤解や困窮でブルータスはキャシアスと言い争いになったり、ポーシャも自死したりして、その点でも理念などぼろぼろの感じです。

 

ここでは、フィリパイに出陣するというブルータスの提案も、冷静さを欠いて賭けに出るような決断に思え、キャシアスも戦略上の判断でなく、この状況に巻き込んだブルータスと共に死ぬことを覚悟して同意したように見えました。

 

こちらでもRSCドーラン版でも、ブルータスにとどめを刺すのは従者のルーシャスだったので、そういう版があるのかもしれません。で、やっぱりかなり妄想込みの感想ですが、ブルータスとルーシャスの関係がハイトナー版では全然違う形で印象的でした。RSCドーラン版は、人徳のあるブルータスが保護者のようにルーシャスに接し、年長・年少者の絆を感じるような関係でした。ハイトナー版ではルーシャスは単なる使用人の扱いで、ブルータスがビジネスライクで少し冷たいと思い、それぞれのブルータスのキャラがよく出ている気がしたんです。ですが、戦地のテントでルーシャスが演奏した時には、ウィショー・ブルータスはじっと演奏に耳を傾け、(ここは原作通りですが)演奏中にルーシャスが眠ってしまってもそっと楽器をはずして慮る変化を見せます。知に軸があったブルータスが、敗北して情にも浸り、庶民のルーシャスと同じ立場に降りてきた気がしました。ルーシャスがとどめを刺すことについては、RSC版の方が物語性を感じましたが、ハイトナー版で情や庶民を示唆するように見えたルーシャスにブルータスが自分の死を委ねたのも感慨深いと思いました。

 

(※「」内の台詞は、小田島雄志訳・白水社版『ジュリアス・シーザー』から引用しました。)