『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

プルカレーテ演出、佐々木蔵之介主演『守銭奴 ザ・マネー・クレイジー』感想

モリエール作、シルヴィウ・プルカレーテ演出、佐々木蔵之介主演。2022年上演。(2023年、BSプレミアム放送。)

 

以下と重なる記述もありますが、この記事内でも2017年上演の『リチャード3世』について少し触れています。

 

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舞台ならではの楽しさ

今回の『守銭奴』でも佐々木蔵之介さんの演技に魅了されました。なんでしょう、舞台でのあの輝きというか(悪の)華というか。『リチャード3世』での佐々木リチャードは、台詞内容とは違う色気のあるイケメンなのでそこはわかるんですが、今回のアルパゴンは内面だけでなく外見もしょぼいくそじじいのはずなのにおかしいな……。

 

舞台の佐々木さんの演技を見たのが『リチャード3世』が初めてだったので(と言っても今回同様TV放送でですが)、ドラマで見ていた佐々木さんの印象と違う舞台での独特のオーラに驚き、更にほぼ一人芝居の『マクベス』で凄さを実感しました。でも、プルカレーテ演出の『リチャード3世』とゴールドバーグ演出の『マクベス』では演技のモードは違っています。2012年の永井愛作・演出『こんばんは、父さん』での佐々木さんは、むしろTVに近いナチュラルな演技で、作品や演出の求めるものに適確に応える変幻自在さを感じます(全てTV視聴だったので実際の上演順とは逆なんです)。今回の演技は『リチャード3世』に近かったですね。

 

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舞台での独特のオーラは、佐々木さんだけでなく『リチャード3世』からの継続出演の壤晴彦さん、手塚とおる​​さん、も同様です。クラレンス公ジョージの時は役的に大人しめだった長谷川朝晴​​さんも、今回のジャック親方ではシュールでよかったし(クラレンス公と同じ人だとわかりませんでした!)。映画ともTVドラマとも違う“舞台で演技を見る楽しみ”はこういうものだ、と思い出させてもらう感じがしました。映画的・ドラマ的な静かな芝居や、更に日常に近いリアルな芝居を舞台で見るのも大好きですが、舞台でないと成立しにくいあくの強い演技ってあるじゃないですか。佐々木さん、壤さん、手塚さんはそこが上手くて白けることがなく、むしろ目が行ってしまいます。逆に、息子クレアントの​​竹内將人さんや娘エリーズの大西礼芳さんはそこまでクセが強い感じではなく、でもそこが抑圧されている息子・娘の役柄に合い(なのでこれも敢えての演技かもしれません)、皆が同じような印象にならないのもよくて、配分・釣り合いの点でも観ていて楽しかったです。

 

このインタビュー記事では、佐々木さんも『守銭奴』やアルパゴンについて、映画やドラマでなく演劇だからやれると言っていますね。

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馬鹿馬鹿しい台詞のやりとりが間や喋り方で本当に面白くなっていて、これは演者の方達の力と、日本語はわからないはずのにそう持っていける演出家の力と、多分両方があるんでしょう。

 

物語のよさや解釈の面白さで作品に惹かれることも多いですし、特に感想記事ではその辺が中心になりがちですが(今回もこの直後で暗い解釈の話を書きますし)、でもそこは置いておいても観て楽しいってありますよね。シェイクスピア作品もそういうところは多いと思います。そんな楽しさがある作品でした。

 

Image by Tim C. Gundert from Pixabay

 

やはり毒を感じるプルカレーテ演出

そう書いておきながらすぐ解釈・演出系の話になりますが、今回もプルカレーテの皮肉な視線や、暗く不穏な雰囲気が感じられました。『守銭奴』は未読でストーリー自体を知らずに観ましたが、観ながら“ストレートに演ったら吉本新喜劇風かもしれないな”などと思い、原作的には表題通りの喜劇なのだろうと想像しました。そこに毒や悪夢感を入れていることに魅力を感じます。上で書いたように楽しいんですよ、楽しいんですけどね、じわーんと怖いし、“これは一体?”みたいな落ち着かない感覚が残ります。

 

守銭奴』がそれ以前の「コメディア・デラルテ」から影響された古典的な作品で、それがプルカレーテ演出で異なる様相になることを、クレアント役の​​竹内さんが以下で語っています。

theatergirl.jp

 

一方、下リンクの記事の佐々木さんの話からすれば、プルカレーテは原作の中に既に毒があると考えているのかもしれません。(太字強調は元記事の方にはなく、私によるものです。)

 

プルカレーテさんは、「喜劇なんだけど、毒蛇が戯曲の中にひそんでいる」という表現をされていた。喜劇だけれども、アルパゴンは悲劇の人だと最初に言われて。どう考えても寂しい奴ですよね、社会と隔絶されていて。家族よりお金への愛の方が強くて、怒りとか猜疑心がすごく強いというところもある。生まれ育った場所、現在の地政学的な問題も踏まえながら、350年前の作品を今、上演しているなと感じています。耽美で妖しく、そして、今の世界を描く狂気の喜劇を劇場に体験しに来てください。

 

spice.eplus.jp

 

アルパゴンの金銭欲は確かに一種の狂気のように描かれていたと思います。彼が金銭を重視する理由は示されないまま、彼の中では絶対のものになっています。この辺のことは最後にもう一度書きます。

 

彼の息子クレアント​​と娘エリーズは、そんな父親に支配され怯えて暮らしています。彼らはそれぞれ結婚したい相手がいるのに金のための結婚を強いられそうになっており、しかもアルパゴンはクレアントの想い人マリアンヌと強引に再婚しようとしていました。原作的にはドケチな父親に翻弄される息子と娘が父をうまくあしらって一矢報いる喜劇展開だろうと(読んでいないのに)想像しますが、彼らは今作で毒親に支配された子ども、経済的に虐待されている子どもとして描かれます。逃げることも思いつかないまま、家に囚われているんだろうと思えてきて、そこにとても今日性を感じます。同記事での竹内さんも大西さんもそれを明確に意識して演じていることがわかります。大西さんは「この状況の中でなるべくよくなればいいなくらいの気持ちかなと。」と語っていて、大西エリーズにはまさにそんな感じがあり、その分析も説得的だし不毛感が伝わってきます(泣)。以下の記事では、装置・衣装担当のドラゴッシュ・ブハジャールが、子ども達が「毒親」から「金銭的なモラハラ」を受けていると語っています。

 

natalie.mu

 

この親子関係以外でも、やはり支配・抑圧や暴力の描写が不気味な形で入っているように思いました。執事で実はエリーズの恋人ヴァレール(加治将樹さん)は、彼女との結婚のためにアルパゴンに気に入られようと彼におもねっています。ヴァレールとエリーズがアルパゴンの許可なく結婚し、ヴァレールが身分を明かす結末からすれば、これは無駄な努力で紆余曲折です。その紆余曲折と転覆は原作喜劇の面白さでしょうが、今作ではヴァレールが信頼に足るかわからない危うさにされている気がします。更に、彼はジャック親方をおそらく執事の地位を嵩に手酷く杖で叩いています。ここも原作的にはジャック親方がヴァレールに濡れ衣を着せる伏線で、古典劇でよく見る叩いたり蹴ったりの(これも時代性ですね)たわいない場面だろうと想像しますが、加治さんのヴァレールはそれを残虐に楽しんでいるように見え、彼と結婚するエリーズの将来が心配になります。

 

アルパゴンの金が盗まれ、警官が呼ばれてジャック親方が事情聴取される場面も、コミカルではありつつ敢えて恐ろしさを強調する描写になっていたと思います。警官は「怖がらなくてもいいんだよ」と言いながら言葉と裏腹にジャック親方を殴り、ジャック親方の方はヴァレールの罪をでっち上げる嘘の密告をします(しかも親方は豚調理での血のついた作業着)。親方もヴァレールも無実で金も戻ってきますが、アルパゴンは警官に謝礼を払うのを拒否し、その代わりに偽証した「あの男(ジャック親方)を首吊りにでもしたらいい」と言い、警官は親方を連行します。しかも結婚を祝う祝祭の中にこの箇所が挟まれ(もしかしたら原作通りなのかもしれませんが)、余計に不穏な雰囲気が生まれます。

 

悪夢的曖昧さ

最終部では、エリーズが結婚させられそうになっていた富豪アンセルムが、ヴァレールの父親であったことがわかり、ヴァレールの身分も保証され、アンセルムの取りなしもあってクレアント​​もエリーズも相思相愛の相手と結ばれます。この大団円的展開、シェイクスピアの『十二夜』や『間違いの喜劇』みたいだなーと思いました(これらも更に元となった話があるせいなのでしょうね)。ですが、そのハッピーエンドを胡散臭く曖昧にしているのが今作です。

 

アンセルムを壤晴彦さんが演じていますが、壤さんはその前に登場したフロジーヌとの2役で、しかも舞台の後ろ側でフロジーヌからアンセルムに着替えています。フロジーヌは、アルパゴンの結婚の仲介役をしたのに見返りをもらえないことを怒っており、この奇跡の再会自体が、フロジーヌがアルパゴンに一泡吹かせるための嘘の芝居なのではないかとも思えてきます。

 

豪華でファンタジックな衣装で演じられる再会エピソードが、貴族の家庭の麗しい話なのか、仮装の茶番なのか曖昧になっています。この、何が本当かわからない、クレアントとエリーズについてさえハッピーエンドかわからない宙吊り感に、やはりプルカレーテ演出の『真夏の夜の夢』を思い出しました。

 

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最終部も、原作の台詞だけからすれば、アルパゴンは「結婚の金は出さない」「結婚式用に服を誂えてくれるなら」と言っており、これは結婚自体には反対しないし結婚式にも出て祝福するとも取れて、頑固な父親が素直に了承と言えないだけで円満解決・関係回復的な作りにすることもできる気がするんです。しかもアンセルムが全部負担する話になっているので、実質は了承の回答になるはず。ですが、賑やかな音楽の後に急に暗くなり、金貨の箱を大事に抱えるアルパゴン1人を置き去りにして、皆が去っていく演出になっています。

 

プルカレーテ版のアルパゴンとリチャード

上の引用で、佐々木さんがアルパゴンについて「家族よりお金への愛の方が強くて、怒りとか猜疑心がすごく強い」と指摘していました。アルパゴンの欲望や感情はひたすら金銭に向けられ、息子と娘については、彼らの結婚で金を得る/または金を使わずにすむことだけが関心事になっています。確かにマリアンヌには金銭を与えた上で再婚しようとしていましたが、クレアントから金と彼女を引き換えに迫られると、アルパゴンは金を選びました。

 

アルパゴンのこの金銭欲は、プルカレーテ版『リチャード3世』のリチャードの権力欲と似ていると思い、改めてプルカレーテ版のリチャードの描き方を考えたりしました。アルパゴンは、例えば『ヴェニスの商人』のシャイロックとは異なり、理由も不在なまま金銭を求めています(シャイロックは実はそんなに金銭自体に執着していないと思いますし、シャイロックのいわゆる強欲さは周囲からの見方の気もします)。プルカレーテ版のリチャードも、原作にある差別と疎外という動機を消し/あるいは相当に薄めて、権力にフェティッシュに魅入られた人物にされている気がします。また、2人ともが手に入れた金貨・王位を失うことを怖れ、他者に猜疑的になっています。

 

『リチャード3世』では、リチャードの玉座に対する欲望が非常にセクシュアルな形で描写されました。『守銭奴』では、家族より金銭を大事にしたアルパゴンが、金貨の箱を赤ん坊のように抱いて愛しんでいるように見えます。プルカレーテ版リチャードは、最終部では舞台に1人だけとなり自ら権力の重みに潰えたような最期を迎えます。今作の『守銭奴』ではアルパゴンもまた1人残され、金貨の箱を元の場所に埋めに行くような終わり方です。それは金貨の箱と共に彼が墓穴に入っていったようにも思える描写になっていました。