『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

9巻39話王家に捧げるものについて

(薔薇王の葬列アニメ14話対応)

 

今回の記事、すごく地味になってしまいました(最近いつもかな……)。『リチャード3世』(以下、RⅢ)ではジョージの子どもの台詞が健気なのですが、『薔薇』ではジョージの子どもは一寸不気味な存在で、子どもの健気さはリチャードの息子のエドワードと重なります。そして原典の引用箇所では2回もリチャードが嘘泣きをしています。

 

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王家の礎について

エドワード王が処刑を撤回したのにジョージが亡くなったことについては、RⅢでは、撤回命令が間に合わずそのまま処刑されたのだとリチャードが告げますが、39話では、おそらく自死だと告げる形です。更にリチャードは、不名誉を避けるため、処刑したと公表しようと提案します。ここも、“どういう手段かわからない形で処刑された”という史料とRⅢとの間での非常にうまい落とし方になっています。

 

エドワードにそのことを告げる前に、リチャードは亡くなったジョージの元に行き、愛おしそうにすら見える表情でその頭を撫でていました。RⅢではリチャードのジョージに対する気持ちは感じられず、自身の目的のために駒のように扱う残酷さを感じますが、『薔薇』の方は、ジョージの死を見取った場面が入ることで、愛している者たちでも犠牲にしそうな嫌な想像につながります。39話でのリチャードは、ジョージの死を「王家」のためと正当化し陶酔しているような恐さがあります。

 

ジョージの死は「戦場で死んだ者たちと同等の価値がある」とリチャードはエドワードに語りますが、その語りは〈そうだ、ヨークのために死んだ兵士……、ウォリック……、ランカスター……、父上……、悲しむことはない、すべては……我が王家(プランタジネット)の礎になるのだから〉という独白につながっています。それは、エドワードへの方便であると同時に、自身を納得させる言葉にも思えます。

 

すべてを捧げろ、この我が王家(プランタジネット)の血に(『薔薇』)

 

39話冒頭に出てくるこの独白は、ジョージたち死者に向けたものとも、リチャード自身のこととも、リチャードがこれから犠牲にする者たちへのものとも思えます。

 

リチャードは、バッキンガムにも、王家に害をもたらす者は排除する、「もっとも愛した人間も殺した」と言っています。これもバッキンガムからの問いかけに、愛した人を殺したという“事実だけ”を答えたようにも思えますが、ヘンリーを手にかけたのは決してそれだけの理由ではなかったはずで、その複雑な経緯がリチャード自身の中でも王家のためという理由に回収されつつあるようにもみえるのです(そして、王家のために死んだ者たちのなかに、ランカスターが入っている!)。王家のため、は、この後リチャードの玉座のために変わっていきますが、それに対する犠牲にリチャードはどう向き合っていくことになるのでしょうか。

 

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しろもふ     写真AC

 

悪魔の「完璧な演技」について

ジョージの死を告げられたエドワードが、なぜ誰も処刑を言い渡した自分を止めなかったと怒ることはRⅢ通りですが、『薔薇』では、この後、そのエドワードの発言をめぐって親族や家臣が揉めます。リヴァースとドーセットがそれに不満を述べたりしたことに、ヘイスティングスが無礼だと非難し、バッキンガムは、ジョージより不忠な者がいると言います。それをリチャードが止め、「どうか皆、手を取り合って和睦を、こんな日に争うのは兄の死に対する侮辱です」と涙を流すので、皆がそれにうっかり心を奪われて(笑)、その場が収まります。バッキンガムは後から「涙ひとつで名だたる貴族を黙らせるとは」「たとえ魔女でも不可能だろう」と言っていますが、その場では目を瞠っていましたね。

 

あまりに自然な流れなので(むしろ『薔薇』の方が自然なくらいです)、見逃しそうになりますが、RⅢでは話の流れは実は逆です。

 

リヴァースたちと対立していたヘイスティングスとバッキンガムをエドワードが和解させ、その和解後にエリザベスが処刑保留中のジョージの赦免を提案します。それに対し、リチャードが、ジョージは既に亡くなったと告げてエドワードが怒るという流れです。リチャード以外は皆ジョージの死を知らないわけですが、リチャードは、皆知っていたはずなのにエリザベスの提案は白々しいと非難します。そして「兄の亡骸を侮蔑するのはあまりの仕打ち!」(RⅢ)と言い、『薔薇』ではバッキンガムのものになった台詞を言うのです。

 

リチャード 神よ、お赦しあれ、クラレンスほど高貴でも忠義でもなく、血筋は劣っても血腥い企みで勝る者が、哀れなクラレンスほどの罰も受けず、疑われもせず大手を振って歩きますことを!(RⅢ)

 

このことは、せっかく親族や家臣を和解させた(RⅢでは既に病床に就いている)エドワードに、相当のダメージを与えるものにもなります。この計画の前に、リチャードは独白します。

 

クラレンスを闇に放り込んだのはこの俺だがあの騙されやすい馬鹿どもの前では泣いてみせる。即ちダービー、ヘイスティングズ、バッキンガムの前でな。……悪には善をもって報いるのが神の教えとか何とか言ってやる。……聖者ぶりが板につけば、悪魔の演技は完璧だ。(RⅢ)

 

こう言った割にはRⅢのリチャードはかなり喧嘩腰ですが、『薔薇』のリチャードの演技は完璧でした。

 

また、RⅢの和解の場では、表面的なものにせよ皆が互いへの愛を誓っています。何度も「愛」という言葉が登場します。それに対して、『薔薇』では、涙で諍いを収めておきながら、その後、リチャードとバッキンガムが王家のために愛する者でも排除すると語り合う流れ。この点でも逆転が施されています。

 

子どもたちについて

居城に帰ったリチャードに、アンが、ジョージとイザベルの子ども(姪マーガレット、甥エドワード)をここで育てたいと頼みます。緊張した面持ちで懸命に説得しようとするアンに、リチャードは「反対すると思ったのか?」「君の妹と…私の兄の子だ」と答え、アンの表情が感謝で和らぎます。アンの信頼も少し取り戻せたかもしれません。(というように見える、アンのすごくいい表情が描かれているんです。)しかし、そこに姪マーガレットが「みんなしぬ…」「あなたもしぬわ…」と不吉発言を投下。

 

RⅢでは、リチャードがジョージの子どもたちを騙しながら、自分を頼るように言った話になっています。

 

男の子〔=甥エドワード〕 グロスター叔父さんが教えてくれたもの、王様がお妃様に唆されて父上を投獄する罪状をでっちあげたって。そう言って叔父さんは泣いていたよ、僕をかわいそうだと言って、ほっぺたに優しくキスしてくれた。お父さんだと思って叔父さんを頼るようにって。僕をわが子のように愛してくれるって。(RⅢ)

 

『薔薇』でのジョージの子どもたちの年齢は史実準拠のようですが(そのため甥エドワードはまだ乳幼児)、RⅢではもう少し年上設定です。RⅢの素直な子どもたちはリチャードにあっさり騙されて王を恨みます。

 

男の子〔=甥エドワード〕 伯父様が、王様がいけないんだ。天罰が下りますよう。僕、一所懸命お祈りして、そうなるように神様にお願いする。(RⅢ)

 

そんな子どもたちに祖母のセシリーが、ジョージを殺したのは王ではないからそんなことを言うものではないと窘め、自分には犯人が誰かわかっていると言うのです。そして、このやりとりの直後に、“エドワード王が亡くなった!”とエリザベスが嘆きながら登場します。

 

マーガレットの「みんなしぬ」は、1つには、不吉な発言が現実になるこの話の転換かと思います。加えて名前繫がりで、姪マーガレットはRⅢで呪いの言葉を紡ぐ王妃マーガレットに代わる存在のようになりそうです。(感想を書きながらじっくり読むと、9巻でのティレルの関わりからも『薔薇』では王妃マーガレットが登場するとやはり過剰になるのかなと思いました。)例えば10巻42話の姪マーガレットの台詞は、この場面の台詞と王妃マーガレットの台詞を混ぜているように思います。10巻では王宮にいたりするという神出鬼没ぶりもRⅢの王妃マーガレットのようです。

 

RⅢでは、エドワード王の王子たちが可愛らしいと同時にリチャードたちが用心するほど聡くて賢い子ですが、そんな頭の良さもマーガレットが持っていった感じもありますね。

 

他方、RⅢの甥エドワードの素直で幼気なところは、(RⅢには登場しない)リチャードの息子のエドワードが体現している感じがします。『薔薇』ではマーガレットの「しぬ」という言葉でリチャードを心配して泣くのはエドワード。そして、この39話で、実の子ではないエドワードを、リチャードはわが子として愛し抱きしめる展開になっています。

                                

ヨーク公と自分とを重ねて、リチャードがエドワードと親子としてふれあうシーンはほっとしました。2人がこういう関係になってよかった……。ヨーク公の方が子どもと関われる今時の父親に近くて、リチャードの方が昔の厳格で不器用な父親のようであるのも面白いですね。複雑な関係だからというだけでなく、愛情を示す会話でもそんな感じがします。この辺の男っぽさと前半の女性的な妖しさの振り幅もリチャードの魅力でしょう。

 

……ですが、愛情深い関係こそ悲劇の前兆になる『薔薇王の葬列』。本当によかったとは思いつつ、息子エドワードとの関係についても今後が気になります。

 

(※RⅢの翻訳は、河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しています。)  
 
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