『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

11巻49話母セシリーとの会食と『リチャード3世』のなぞの台詞について

(薔薇王の葬列アニメ16話対応)

せっかく表紙帯の「私にとって人生とはリチャード様なのです」の回なのに、母セシリーとの会食についてって、すごい地味なんですけど。やっぱり話のメインはセシリーとの関係ですよね。つい記事のタイトル盛っちゃいました、すみません……。

 

この会食場面ですが、『リチャード3世』(以下、RⅢ)にその場面自体はなく、これは“なぞの台詞”とされるもの(←大袈裟です)を菅野先生が解釈して、比喩的に描いたものではないかと思ったんです。菅野先生は見事な伏線を貼るだけでなく、そこここに原典の(もったいないぐらい)さりげない参照を入れてくるので食事にも意味がありそう。その解釈を推測するものなので、胡散臭くなっちゃいますが、今日はそんな話です。

 

49話では、リチャードとエリザベスの対立が深まるなか、エリザベスはセシリーに助力を求めます。セシリーはリチャードのもとを訪れ会食後に殺害しようとして失敗し、エリザベスやヘイスティングスらに「秘密」を暴露し、リチャードを殺してほしいと要望します。これは『薔薇』オリジナルの展開ですね。

 

一方、ヘイスティングスは、エリザベスと結託して王宮外から権力を握ろうとしているとハワード卿たちから非難と疑いを向けられ、いよいよ内紛・対決の状況を呈してきます。次の一手を問うリチャードに、バッキンガムは、議会の場でヘイスティングスに効果的に死んでもらうことを提案します。ここでリチャードとバッキンガムが剣を交えながら話しているのは、RⅢで2人が鎧を着る場面のオマージュでしょうか。

 

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恐いセシリーとエリザベスについて

48話最後で描かれたセシリーのラスボス感……。『薔薇』のセシリーとエリザベスは本当に恐いです。「恐れるものなどありはしない」というリチャードの余白独白の箇所でセシリーが登場、セシリーの訪問を告げるケイツビーも言いよどんだりしています。

 

『薔薇』のエリザベスには『タイタス・アンドロニカス』のタモーラの要素が入っているだろうと思います。今日のこの後の話も含め胡散臭い妄想も語る当ブログですが、タモーラについては「私の賭けた方に乗ってくれ」ぐらいの強気な気持ちです。それが原典エリザベスにはあまり見られない恐さを出している気がします。また、12巻では、かなり『タイタス』の展開が絡められていると思います。

 

一方セシリーについては、RⅢをそのままに、とても面白い解釈をしているように思います。そして、なぜ『薔薇』では会食後にセシリーがリチャードを殺そうとするシーンになるのかです。

 

まずはセシリーの解釈についてです。多分普通に読めば、RⅢのセシリーはそれほどひどい親には見えないのですが、どう毒親的に解釈しているのか、の推測からです。

 

賢母にすら見えたりするRⅢのセシリーについて

※RⅢ2-2などの数字は2幕2場を指します。

「夫の似姿を写していた2つの鏡が邪な死によって粉々に割れた。かろうじてもう1つ、歪んだ鏡があるものの、そこに見えるのは、悲しいかな、わが恥ばかり。」(RⅢ2-2)

「死を呼ぶ怪物をこの世に産み落としてしまった。」(RⅢ4-1)

「私の呪わしい息子の息の根を、激しい言葉の息で止めてやりましょう。」(RⅢ4-4)

 

49話のセシリーの台詞は、このようにRⅢの複数の登場回から抜き出されたものが使われていて、RⅢでも相当のことを言っているように見えますが、RⅢを通して普通に読むとあまりひどい母親には見えません。

 

1つは、セシリーは何よりリチャードが犯した殺害を怒っているからです。RⅢ2-2では既にリチャードはジョージを暗殺していますし、4-4までには更に虐殺を重ねています。4-4の台詞は暴走する息子を止める手段を持たない母親がせめて何かしようとする悲しいあがきや後悔にも読めます。恐いことは恐いですが、“悪いことをしたらお母さんが許さない”みたいな恐さです。

 

また、RⅢでは、セシリーが嫁にあたるエリザベスやアンを慮ったりもするので、気に入った息子だけを大事にする人というより、基本的にはいい人なんだろうと思えることもあります。まあ、セシリーとエリザベスは悲しみのあまり一寸勝手になるところも見られますが、『薔薇』の2人よりははるかにいい関係です。この辺は『薔薇』と少し異なります。

 

そして、RⅢでは女性登場人物全員がリチャードを罵倒したり呪ったりしているので、原典のマーガレットやアンに比べると、“殺人を重ねる息子に母親がこのくらい言うのは当然か”と思える程度です。特にマーガレットは最強(凶)。もちろんマーガレットにも、リチャードやヨーク家の人々を呪う理由は十二分にあるのですが。

 

本当に退場になるかどうかはわかりませんが、46話でマーガレットから呪う役割をはずしたのは、そんな理由もあるかと考えました。つまりセシリーやエリザベスが目立たなくなる。あるいは、『薔薇』ではこの2人が非常に強く描かれているので、マーガレットまでいるとちょっと過剰になるかもしれません。

 

賢母か毒親か 

こう書いてくると、RⅢのセシリーはリチャードの殺害行為に憤慨する真っ当な母親に思えます。ただセシリーは、それを非難しながら、リチャードが小さい頃から乱暴で手がつけられなくて、大人になっても狡猾で残忍で「おまえが生まれたせいでこの世は私の地獄となった」(RⅢ4-4)とも言っています。

 

ですが、1巻4話についての記事で書いたように、HⅥでは、リチャードはヨーク公(父上)から非常に頼りにされていましたし、対ランカスター戦では英雄的な存在のはずです。RⅢでも一応スコットランド戦の戦功は言及されていますし、兄たちは彼を信用していました。 

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

その裏でリチャードが野心を抱いていて、信用した兄弟も裏切った結果から見れば、セシリーは、だまされずにリチャードの本質を見抜いていた賢母ということになります。『ホロウ・クラウン』のデュディ・デンチなんかはこの方向性でのセシリーだったように思います。こちらの解釈の方が一般的なのかもしれません。

 

『薔薇』ではセシリー自らに言わせています。「私にはわかる…お前の本性、お前の欲望」「皆あの悪魔に狂わされる」、つまり自分は正しく見抜いているというわけです。

 

他方、父も兄弟も問題にすらしていないリチャードの言動を、セシリーは悪い方に悪い方にとっていた解釈も成り立ちます。彼らが買っていたリチャードの美点や功績には一切触れず、セシリーはリチャードの問題ばかりをここであげつらっています。ここに注目すれば、実はずっとリチャードを憎んでいたセシリー像が浮かびます。

 

こちらについては、50話の回想で兄エドワード王に語らせています。「母上にも困ったものだ、何故あんなにもリチャードを目の敵にするのか」と。その理由は、悪魔の身体であるからという理由になっている訳ですが。

 

1巻1話の記事を書いたときには、ここまで考えていなかったのですが、母から憎まれて父から愛されるリチャードは、ある意味公式設定(原典準拠)とも言えそうです。セシリーの毒親的な解釈は、HⅥ・RⅢの深い読みに支えられたとても面白いものだと思います。

 

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みーゆ   写真AC

 

セシリーとの会食について

そしてなぜ会食の場面なのかということですが、1つは、RⅢでヘイスティングス処刑後に食事をするという台詞があって、その前後を逆転させたことも考えられます。

 

そしてもう1つの方がメインなのですが、“なぞの台詞”と大袈裟に書いた以下の台詞にかけて描かれているんじゃないかと思うのです。これは小さい頃からリチャードが手がつけられなかったと非難した直後のやりとりです。

 

公爵夫人(セシリー) どんな満足のいく時を、私はおまえと一緒に過ごすことができたと言うのか。(What comfortable hour canst thou name, That ever graced me in thy company?)

(リチャード) Faith, none, but Humphrey Hour, that call'd your grace, To breakfast once forth of my company.

 

この台詞、河合祥一郎先生も松岡和子先生も、注で意味不詳と書いておられるんですよ。現在のシェイクスピア上演の翻訳といえばこのお2人、みたいな御大がですよ。その上で河合先生は「母上が私から離れて行く時ですかね」、松岡先生は「断食中の私をおいて、母上が食事しに行かれた時」になっています。Humphrey Hourは絶食という意味だそうです。

 

これに菅野先生は解釈を出しているんじゃないかと思うんです。

 

空腹な子どもを置き去りにした母親という。

 

台詞に子どもの時とは書いてありませんが、一緒にいたのに母親だけ食事に行ったことが遺恨になったり非難の対象になったりするのは、子ども相手の場合だろうと思えます。こう解釈すると、リチャードの方も、母親がずっと自分を憎んできたことを知っていたしひどい扱いもされたと皮肉を返しているように読めます。

 

RⅢではこのやりとりの後、セシリーは、リチャードを殺すような呪いの言葉を残して退場します。

 

『薔薇』では49話の扉絵が森にいる幼いリチャードで、暗闇の中で恐がるリチャードの回想場面の後に、つまり置き去りや放置を思わせる場面の後に、セシリーの訪問と会食シーンがあります。breakfast=絶食後の食事、となります。続く50話でもセシリーがリチャードを森に連れて行く1話の回想場面が再度描かれていますが、リチャードがケイツビーに「まよったら…おむかえにきてね」と言ったりして、なんだかグリム童話の置き去りまで連想させるような挿話になっています。ここまで来ると子殺しに更に近づく印象です。

 

1巻1話の記事で書いたように、荊棘の森に迷うのはHⅥの台詞の踏襲でもありますが、ケイツビーの後悔も含め、更に意味が折り重ねられているように思います。

 

会食・食事のモチーフは、RⅢの台詞の解釈の上で、セシリーの冷たさ、置き去り、子殺しの象徴として使われているんじゃないかと想像=妄想します。会食の時には、リチャードが、母親と2人だけで食事をしたことがなかったと思い返してもいますしね。

 

そして、この会食でのやりとりの後にセシリーは「この世にお前を産み落とした罪」を償うと言ってリチャードに刃を向けるのです。殺害に失敗したセシリーに、リチャードは心の内で(そうやって何度でも俺を殺してみるがいい)と言いますが、『薔薇』のリチャードは、既に何度も母からの呪いの言葉で殺されてきたとも言えます。

 

「お前を産み落とした罪」に似ていながら、49話では使われなかったセシリーの台詞がありまして、それが「この呪われた胎(はら)の中で絞め殺しておけば、おまえが犯した虐殺はすべて防げたのに」(RⅢ4-4)です。

 

これは50話で、ジェーンが渡した堕胎薬とその際のリチャードの台詞「子を殺す母は…どれだけいる」に転換されている気がするんです。この堕胎薬を利用して、リチャードは自分にかけられた「呪い」の証拠を捏造し、セシリー、エリザベス、ヘイスティングスの企てに反撃します。

 

RⅢの翻訳は、河合祥一郎訳・角川文庫版から引用しました。

 

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