『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

新国立劇場、野木萌葱作『骨と十字架』感想:『薔薇王』好きな方も観て下さい

新国立劇場、野木萌葱作、小川絵梨子演出『骨と十字架』2019年上演、2023年配信。

 

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン:神農直隆

イエズス会総長:小林 隆

エミール・リサン:伊達 暁

アンリ・ド・リュバック:佐藤祐基

レジナルド・ラグランジュ近藤芳正

 

これは『薔薇王の葬列』ファンも観て!……という気持ちもあり、作品紹介箇所は若干そこ方向でアピールしていますが、『骨と十字架』感想のつもりです。観劇後の方は紹介を飛ばせるように目次を作りました。紹介箇所とその後で一部重複しています。

 

『薔薇王』民へのアピールを含む作品紹介

大袈裟に言えばシェイクスピアより『薔薇王』っぽいところがあるかもと思ったりしました。“ほねじゅう萌え”とかも言われています。

 

進化論の研究と信仰の両方(両立)をやみがたく求めるイエズス会司祭、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンが主人公。他4人の登場人物も聖職者。検邪聖省(異端審問所)ドミニコ会司祭レジナルド・ラグランジュは、そんなテイヤールを異端だと糾弾・牽制し、進化論の講演・出版をしないよう署名を求めます。それに従おうとするテイヤールを、挑発的に学究の道に誘うのがシニカルなメガネ司祭で学者でもあるエミール・リサン。テイヤールはリサンと共に北京に赴く決意をします。イエズス会総長ウロディミル・レドホフスキはその署名を促す一方、テイヤールやリサンに北京で研究の自由を与えたようでもあり腹の底の見えないところもあります(「腹に蛇を飼うペンギン」と言われたりもします)。テイヤールを「先生」と慕う弟子アンリ・ド・リュバックは、なんだか間違った方向でテイヤールを心配したり、リサンにつっかかったり。

 

キリスト教関連なので当然かもしれませんが、失楽園モチーフも効いている気がします。参考文献とされる『神父と頭蓋骨』から人物像や関係性を変えて萌えを引き出した感じが、『ヘンリー6世』『リチャード3世』→『薔薇王』に似ているように思うんです。あと、SNSやブログの感想を見ると、リサン大人気なんですよね。

 

画像を挟んで更に(『薔薇王』っぽい)ネタバレ的な話を書きますと……

 

Alonso de Ovalle, Public domain, via Wikimedia Commons

 

テイヤールを「一目で看破し」彼に先んじていたかのようなリサンでしたが、異端の誹りを受けても進化論研究と信仰が重なると信じて邁進するテイヤールと、両者を矛盾するものとして折り合いをつけないまま2つを追求した自分との違いを突きつけられ、羨望と嫉妬を抱きます。「気づいてしまえ。お前なら気づくはずだ。人の進化に神の介在する余地はないと」「それに気づいた時、お前はお前の神を否定する!」

 

研究の方向性を違えテイヤールはリサンの元を去ります。そしてみごと北京原人の頭蓋骨を発見したものの、リサンが予言したように神に迷いだすのです。

 

知によって神を見失う失楽園モチーフがかけられているんじゃないかなという気がしました。それは私の解釈=妄想なのですが、失楽園については、署名が求められた場面でのテイヤールとラグランジュの対話の中で出てくるので、失楽園モチーフがあること自体はまあ嘘にはならないかなと思います。参考文献とされる『神父と頭蓋骨』はこういう展開ではないですし、冒頭から進化論と信仰の両立を信じているテイヤールがここで迷うのは論理的には考えにくいように思うのです。キリスト教にも聖書にも詳しくない私の浅慮かもしれませんが。

 

進化論と信仰、そして萌え論争

www.nntt.jac.go.jp

 

本作品は、進化論を否定するキリスト教の教えに従いながら、同時に古生物学者として北京原人の発見に関わり、一躍世界の注目を浴びることとなった実在のフランス人司祭、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの物語です。どうしても譲れないものに直面したとき、信じるものを否定されたとき、人はどうなっていくのか、どう振舞うのか。

 

というのが公式の紹介ですが、上演当時も今回配信時も、感想やSNSでは“萌え”が多く語られ、その点でも推されていました。記事タイトルにもなったほどで、BL言及もありました(以下リンク)。私も“なぜその話で萌え?”と思ったものの、観た後は“確かに”としか言いようがありません。一方、そうした捉え方への批判もあります/した。

 

insights.amana.jp

 

八方美人的に振る舞うのもアレですが、どのスタンスもわかる気はします。今作は、テイヤールが進化論を弾劾されつつ古生物学と信仰の両方を追求する話以外の何ものでもなかったですし、テイヤールの葛藤や迷いもより普遍的な話にして共感を寄せやすくしている気もします(私自身がここに共感した訳ではありませんが)。また、私にキリスト教関連の知識はないものの、進化とキリスト教の信仰を重ねるような「比喩」が散りばめられる台詞と物語展開が美しく素晴らしいのです。ですが、そこも含めて私には萌えでした。

 

加えて登場人物や関係性についての作劇にもそんな面があります。登場人物達はキリスト教(または宗教)のあり方を体現させた造形にも思える一方、主人公テイヤールとの関係性や感情にもかなり焦点が当たっています。上の紹介文から野木作品の『Das Orchester』に近いものを想像していたら、『ブロウクン・コンソート』の美しい言葉+信仰バージョンのようだったというのが私の印象でした。『Das Orchester』はフルトヴェングラーがモデルの指揮者が、ナチスによる音楽の政治利用に抵抗しようとしつつ絡めとられていく話で、こちらは私にとって萌えでなく、追い詰められる辛さと怖さと尊厳を感じた作品です。そんな風に『骨と十字架』を観た方もいるかもしれません。他方、『ブロウクン・コンソート』は、町工場が犯罪に絡みヤクザや刑事が出てくる話で内容的には全然違うのですが、登場人物達の関係性や感情の圧に持っていかれます。『ブロウクン・コンソート』も『骨と十字架』も、恋愛は出てこず、そうでないからこそよいとも言え、その点でBLとは違うというのにも頷ける一方、その関係性や感情に抱く萌えはBLへの感覚に近い部分もあり、ショートカットでそう呼ぶのもありかと思います。(リサン大人気なのですが、私の推しは総長だったりするので「穏便に」という感覚になるのかも。そして私の推しという言い方をしたくなったりするのです。)両腕を広げて真摯な主題と萌えを抱きしめてもよい気がします。

 

以下、記事リンクと画像を挟んでネタバレが入りますのでその前に。今作は舞台装置もとてもよかったです。途中の転換で“あ、そうなるのか”と驚きがありました(これは萌えとは無関係に)。

 

骨と十字架 | 舞台写真・公演記録 | 新国立劇場

 

Image by Briam Cute from Pixabay

 

Keep Walking

元はこちらがタイトルだったというこのサブタイトル、「歩く」「歩き続ける」という言葉が進化と信仰と思考の歩みを象徴し、変奏されるさまが本当に美しいです。一度神を見失いそうになったテイヤールが再び「私の神の御許に」と歩きだす終幕も、テイヤールの主張するキリスト教的進化論とつなげられているだろう作劇に痺れます。全然知識がないので「だろう」ですが、それでも痺れます。

 

人類が二足歩行で歩きだすこと、人類がアフリカから世界各地に歩いていったこと。

信仰と知の両方を前に進めるために、テイヤールが故郷を出て知らない土地に移動すること。

迷って立ち止まったテイヤールに「歩きませんか」と検邪聖省のラグランジュが促すこと。

 

また、『神父と頭蓋骨』によれば、テイヤールの著書『人間の未来』の冒頭に、ガリレオを踏まえた次の言葉があるそうです。

 

ある日、一人の人間が事物の見かけをものともせず、自然の力は星そのものと同じく、不変で軌道に固定されてなどおらず(中略)巨大な潮流を描いていることに気づいた—そして、地球といういかだの上で安らかにまどろむ人類に向かって叫ぶ最初の声が響きわたった。「われわれは動いているのだ! 前に向かって動いているのだ!

 

また別の書(ここは出典記載なしでした)ではこうも書かれているそうです。

 

私が果たすべき使命があったとすれば、それを成し遂げることができたかどうかは、ほかの人々がどこまで私を超えて行くかによってのみ判断することができるのだ。

 

今作では冒頭から、テイヤールは弟子のリュバックに「先に歩いていきなさい」と言っているのですよね。

 

また、上での記載と重複し、この辺からは私の解釈=妄想ですが、失楽園モチーフともかけられているんじゃないかという気がしました。

 

前半、知を進めるべきと言うテイヤールを、検邪聖省司祭ラグランジュは「人間は禁断の実を口にして楽園を追放されたのだ」と非難し、それに対してテイヤールは「自ら選んだのかもしれません、この私のように」と、外に出る、変化することを求めます。(『神父と頭蓋骨』では、中国に赴く時のテイヤールの手紙に出エジプト記の言葉が出ていることが記されていて、ひょっとしたらそのへんの含意もあるかもしれません。)「自ら考え迷うものを神は決してお見捨てになりません」とその時点でテイヤールは言っているのですが、知を探求し北京原人の骨を発見したテイヤールはまさに迷い始めます。

 

その発見は科学的には大きな成果ですが、最初から進化論と信仰の両立を信じているテイヤールがそこで迷い始めるのは論理的には考えにくいように思います(劇中では「決して神秘体験ではない」が「うまく説明できない」、でも神と繋げて考えられないのは初めてのことだ、とされています)。少なくとも参考文献の『神父と頭蓋骨』はそういう展開ではありません。『神父と頭蓋骨』では、進化論と信仰の両立についてはテイヤールは一貫し、そこでの迷いはなく、葛藤を抱えているのはあくまでイエズス会やヴァチカンに出版を禁止され、故郷に戻る許可も下りないことに対してです。そこを今作は敢えて改変しています(もしかしたら、テイヤール自身の著作等では今作に近いところがあるのかもしれませんが)。加えて、今作リサンは、知が信仰を裏切ると考える人物にされており、その彼が知の方にテイヤールを誘い、信仰を疑わないテイヤールに嫉妬するという、蛇やサタン的存在になっている気もします。外に出た者、迷った者が再び神を信じて歩むという話にされているように思うのです。あるいは、もう神がいなくても歩くということでもよいのかもしれません。

 

『神父と頭蓋骨』とwikiのみの情報で適当なことを書いていますが、今作自体が「真実の比喩」のように見えてきます(テイヤールは聖書を事実の記載でなく「真実の比喩」と捉えました)。「歩く」だけでなく、「火」なども象徴的に語られたり使われたりしています。

 

野木さんが『神父と頭蓋骨』から題材を見つけ、どう膨らませたかのインタビュー記事が以下です。

spice.eplus.jp

 

登場人物のあれこれ

実際の人物と今作での造形については、宗教学者の中西恭子さんがブログで『骨と十字架』感想を書いておられるので、こちらもぜひ。

 

mmktn.hatenablog.com

 

私の方は『神父と頭蓋骨』との比較だけですが、登場人物についても、テイヤールを含めてかなり人物像が違う感じはしました。検邪聖省のラグランジュイエズス会総長については、『神父と頭蓋骨』ではわずかなエピソードが書かれているのみ。今作の登場人物達にも、テイヤールの進化論・科学を否定し、やがて受け入れ神学を強化するものとして称賛したキリスト教と進化論との関係や、その経緯の「比喩」が体現されているのではないかと思いました。

 

ラグランジュは実際にテイヤールの考えの批判者だったようですが、彼はキリスト教の強権的で教条的で時に暴力的な面と、同時にその厳しさ揺るぎなさで人を導く面、その両方が体現されているような気がします。

 

今作のイエズス会総長は、進化論を受容し時代に合わせて柔軟に変化していく、キリスト教の寛容さや懐の深さ、したたかさとずるさを象徴する人に思え、ラグランジュと対照的です。組織として信仰や宗教を守る立場に留まりつつも、「腹に蛇を飼うペンギン」とラグランジュに言われるのは、そこに不満をもち、状況を見ながら現在の教義を侵犯し先に進もうとするためかもしれないと思いました。(多分この文脈とは関係ないと思いますが、総長は、言葉に常に裏がありそう、本音と別のことを語っているようである一方、「迷える子羊」達を暖かく見守るようでもあります。野木さんが以下のインタビューで『神父と頭蓋骨』のテイヤールについて語っている、「自分の意志を押し通してのことでなく、"上からの命令に従った、誰かのためにそうしている"というような、ある種の保険がかかっている感じがする」という人物像は、総長の方に一部投影されている気もしました。)

 

『骨と十字架』 ― 「信じる」を描く、野木萌葱という作家 | 新国立劇場 演劇

 

野木版のリサンは、進化論(科学的真理)の側に立ちつつ、容易に解消できない信仰との対立や、科学が信仰を否定する可能性を理解する人。「神を否定する」と言う彼の台詞は、後にテイヤールのキリスト教的進化論の精神性が、科学から批判されたことを先取りするものになっている面もあるかもしれません。テイヤールを挑発する一方で、神を否定しそうなテイヤール=進化論の行きつく先を警戒し、それを一番理解して同情する人でもありますね。

 

リュバックは、史実では、テイヤールの業績を擁護しキリスト教内で再評価させる役割を担った人のようで、テイヤールの考えに賛同して左遷されたり、今作より信念の人の感じがしますが、今作の彼は、総長より現実主義的に、進化論の社会的・学術的評判によってキリスト教での受容が可能と考える立場といったところでしょうか。こちらはリサンと対照的で、テイヤールの心情にあまり理解が及ばない人にもなっていますね。史実リュバックによるテイヤール復権からするとペテロ的立ち位置なので、今作では裏切りエピソードが入っているんでしょうか。

 

また、それだけでなく、この5人のキャラクターと関係性でやはり萌えが作られていると思いました。

 

『神父と頭蓋骨』でのテイヤールは、上述したように進化論や神学の公表を阻まれ苦慮しつつも信念は揺るぎませんが、野木版テイヤールは、信仰に惑いそこでいっぱいいっぱいになっているような危うさがあります。ヘッセの『知と愛』的テイストを感じたりするんですよね。それを他の4人が案じたり構ったりするという……。え、なに、ラグランジュもリサンもツンデレツンデレなの? リュバックと総長は元から彼を気にかけていましたが、一層心配したり、リサンやラグランジュを頼みにしたりするし。(皆がテイヤールを好きになるのは『神父と頭蓋骨』と共通ですが、そのニュアンスも少し違うんですよね。『神父と頭蓋骨』のテイヤールは研究ネットワークを自ら広げていく社交的で探求心旺盛な印象で、野木版だともっと真っ直ぐで思索的で放っておけない感じというか。)

 

総長とリサン・テイヤール・リュバックの関係も、こう、反抗期だったり困った子供達みたい(「迷える子羊達」)だし、テイヤールがリュバックと総長に違う内容の手紙を書いていたりするところもよいです。手紙については『神父と頭蓋骨』に類似エピソードがあるのですが、それは研究協力者に研究が順調であることを知らせる手紙と、せめて家族と会うためフランスに戻る許可を求めて総長に宛てた手紙の話です(しかもそれが許可されない)。それが、今作だと、テイヤールが「教え子に見栄」を張り、総長には早く戻りたいと本音をもらし、総長の方は、研究ができないフランスに帰還させるべきか悩み、リュバックは総長に苛立ちをぶつけるという話にされているのです。

 

『神父と頭蓋骨』の面白さ

参考文献の『神父と頭蓋骨』の方は『バタフライ・エフェクト』『プロジェクトX』的な、進化論がどう展開したかの科学史ワクワク感がありました。

 

一方、こちらでは彫刻家ルシール・スワン(女性)と親密でありながらあくまで友達でいたい司祭テイヤールと、それでは満足できないスワンの話もありました。こ、これはこれで『薔薇王』や『王妃と薔薇の騎士』みたい……。『骨と十字架』とはかなりテイストが違って両方美味しかったです。科学・思想史系の話と、テイヤールの伝記と、主題や比重がどっちにあるのか未整理な感じはしましたが。

 

モンキー裁判の話も出てきます。モンキー裁判の弁護士が、レオポルド&ローブ事件の弁護士だったということもこの本で知りました。『Thrill Me』!

 

あと、『骨と十字架』で話は出てきませんが、もろに日中戦争と被ってテイヤールも巻き込まれ、発見された頭蓋骨も行方不明になってしまうので、こちらを読むと日本サイテーって気持ちにもなります。悪行はこうして記録され、知られるところになるのですね。これについては今日的でつらいところです。間接的な形ではあっても、「現実を撃って」いるかもしれません。