(薔薇王の葬列アニメ14話対応)
「人の一生を数える」ティレルについて
バッキンガムの仕事の依頼にはフォレストたちが対応し、ティレルは羊の群の近くにいます。「ひとつ、またひとつ、時を彫りつける」「人の一生を数えている」と、短くなっていますが1巻3話でヘンリーが羊飼いへの憧れを語ったのと同様の台詞が出てきます。フォレストたちによれば、ティレルは「羊飼い」。でも、どうもティレルは羊を飼っていないようですし、その足下には……
リチャード 埋めてやったのか、優しいティレル。(RⅢ4-3)
(↑全く別の箇所からです。)
って感じですよ!
「時を彫りつける」=殺人、「人の一生を数える」=死体の数ってことですか……。
HⅥ(3)でヘンリーが羊飼いになることを夢見る台詞がこんな形で使われるとは。ここでも菅野先生容赦がありません(素晴らしい!)。バッキンガムが今話で「人は変わらない」と語ったこととの関連も感じさせます。ティレルもふんわりしていますが、それが逆に怖い。
1巻でのヘンリーの羊飼いを夢見る台詞は、リチャードの王冠=楽園を夢見る台詞と対になった“対話”でした。ここでのティレルの〈ああ、なんて楽しい生活だろう〉は余白での“独白”になり、楽園でない王宮の宴の場面につながっています。ある意味で憧れを手にした2人ですが、その現実が皮肉です。
「王様ゲーム」とハル王子(『ヘンリー4世』)について
手続きを踏んだ排除というリチャードの想定とは異なり、エドワード王は逮捕したジョージをしばらくそのままにすると言い、リチャードたち逮捕に尽力した者を町の娼館に連れて行きます。
そこにベス〔=エドワードの娘のエリザベス〕が隠れて着いてきてしまい、娼館で一悶着あった後、リチャードたちはベスの希望で町の居酒屋に行き「王様ゲーム」。なぜベスと「王様ゲーム」???……。ふと思いついたのが(いつもの妄想)『ヘンリー4世』オマージュです。
1つには、父王ヘンリー4世が王位の重さと対立や謀反に煩悶している傍らで、町の居酒屋で遊びに興じるハル王子という構図です。ヘンリー4世=エドワード王、ハル王子=ベスという関係。ハルに比べれば、ベスのお忍びなんて本当に可愛いものではありますが。
エドワードがジョージの件で実は苦しんでいたことが37話で初めて描かれました。この後の40話では、ジョージの処分についても、必ずしも唆された訳ではなく彼の裏切りを恐れ憎んでいたとエドワードは語っています。38,39話の処刑撤回の話はRⅢ通りですが、『薔薇』ではそれ以上にエドワードの葛藤が描かれており、それが『ヘンリー4世』や『ヘンリー5世』に近い描写になっているように思います。10巻41話にも苦悩と“安眠”についてこれらからの引用と思われる台詞があります。
ハル王子とベスは、親の期待から外れた子どもとして描かれています。(もっとも、ハルの場合は行状のせいなので、自業自得だったりはしますが。)後継ぎなのに放蕩を重ねるハルに落胆するヘンリー4世は、家臣の立派な息子(ヘンリー・パーシー)と逆だったら、とか、取り違えられたと思いたいとまで言うくらいです。ですが、後に叛乱に加わったヘンリー・パーシーを討ち、最後に英雄的な王になるハル〔=ヘンリー5世〕。方や、後継ぎかと期待をされながら男子ではなく母親にがっかりされ、何かと二の次にされる『薔薇』のベス。ですが最終的に王位を繋いでいくのは、兄弟ではなくベスです。
『ヘンリー4世』ではハルが父王ヘンリーからの叱責に備えて、酒場で申し開きの予行練習をする場面があり、そこで父王の役をハルや遊び仲間のフォルスタッフが演じるのです。その意味では「王様ゲーム」。そこでハルとフォルスタッフの冗談とも本音ともつかぬやりとりがされます。
ベスは「エールは不味いけど」居酒屋は楽しいと言い、ハルは「俺の味覚は王子らしくないようだ。あの水割りビールって情けないやつが忘れられないんだから」(『ヘンリー4世』松岡和子訳、筑摩文庫版)と言っています。
同時に、もう1つ、エドワード自身がハルにも似ています。ヘンリー4世は自分に厳しく身を律していますが、エドワードの方は、苦悩はヘンリー4世と共通していてもその行動はむしろハルのようです。ハルは予想通り父から怒られますが、エドワードにそのまま当てはまりそうな内容です。「お前はあんな乱れた卑しい欲望に溺れ……あんな不毛な快楽にふけり、やくざな仲間と付き合っている、そういう不行跡がどうしてお前の高貴な血と両立できるのだ、どうして王者の心を満たすことができるのだ?」(←元のお説教はもっと長く続きます)(『ヘンリー4世』松岡和子訳、筑摩文庫版)。
そんなハルも、実は王位の重さと苦悩も十分わかっていて、不行跡の裏でも、逆に後に英雄のようになってもそれを抱えています。10巻41話では、やはりハルの「雲霧」の台詞を引用してエドワードへの非難が語られており、エドワードは、成長できなかったハル、またはヘンリー5世の暗部として描かれているようにも思うのです。
同じことと違うことについて
「同じ」と「違う」は『薔薇』でしばしば出てくる表現ですが、37話ではこれが強調され、「俺は誰とも似ていない」という台詞とつながります。既に記事で取り上げた中でも2回この台詞が出てきますが、今話で元のHⅥ(3)のジョージ暗殺の文脈通りに使われます。
リチャードは、娼館で「ここでは皆同じ、年齢も身分も見目も関係ない」と誘いを受けますが、こう言われて自分の身体の違いを改めて意識します。他方、路地のレプラの病者が、神に見放され親にも捨てられたと話すのを聞き、「地位と名で守られた、この衣を剥がれれば」「この男何が違う?」と自問します。そして、肌の色からケイツビーを「流れ者」と毒づいて「俺と同じだ」と言った、別の路地の男の言葉を「同じ、か」と反芻します。
忌避される病者との違いは「王家の血」と「権力(ちから)」。「この身体に希望を持てるものがあるとすればこの血だけだ、王家の血がこの身体の罪を覆い隠す」。(ここに『ヘンリー4世』の「高貴な血」つながりも想像してしまったりします。)再び病者を見ながら「俺は誰とも似ていない」とリチャードは言います。
地位がある点で病者と違い、「身分も見目も関係ない」「皆同じ」と言われてもリチャードの身体は違い、また王家の血を引きながら身体のせいで兄弟とも違っています。「俺は誰とも似ていない」と言ったリチャードは、HⅥ(3)の元の文脈通りに「バッキンガム、ジョージを殺せ」と命じます。
おれはどの兄弟にも似ていない、年寄りどもが神聖視する「愛」などということばは、似たもの同士の人間のあいだに住みつくがいい、おれのなかにはおいてはやらぬ、おれは一人ぼっちの身だ。クラレンス〔=ジョージ〕、用心しろよ……恐れをとりのぞく名目で、おまえを殺してやるのだ。(HⅥ(3))
リチャードが「俺は誰とも似ていない」「バッキンガム、ジョージを殺せ」と言う前に、バッキンガムは「誰も愛したことはない」と言い、人に希望を持たなければ自分に希望を持てるとリチャードを説得しています。ここでもバッキンガムは原典リチャードのように振る舞っていますが、その一方でリチャードに過剰とも言える思い入れをしています。バッキンガムの気持ちもその言葉とは違っているようです。
『薔薇』のリチャードにとって、まだこの時点ではジョージの暗殺は自身の王位のためではなく「身体の罪を覆い隠す」王家のためです。原典リチャードのように忌避される身体に代わる権力を求める一方、『薔薇』のリチャードは、ヨーク家の安泰の気持ちも嘘ではなく、またその身体のためにむしろ王位への欲望を抑え込んでもいるという両義性があります。
ただ、37話の最後に、過去にリチャードを襲った男が「あの時の悪魔の子供」だと気づいたことで、事態は少しずつ動くことになります。