『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

12巻54話ヘンリーの夢について

ボトムとタイテーニア、ピラマスとシスビーについて

53話で矢を受けたリチャードは、昏倒し、夢うつつになっています。

 

52話冒頭でリチャードが見た夢では、ヘンリーが驢馬になって出てきました。『夏の夜の夢』でタイテーニアが花の滴の魔法のために愛してしまった驢馬は、姿を変えた職人ボトムです。どちらにしても、タイテーニアには本来あり得ない愛の相手でしょう。また、ボトムの驢馬への変身もパックのいたずらで、これは、ヘンリーがティレルになっていることや、過去に、ヘンリーではなく羊飼いとしてリチャードの前に現れていたことの比喩のようにも思えます。

 

(※ 『夏の夜の夢』は『夏』、『リチャード3世』はRⅢ、『薔薇王の葬列』は『薔薇』と表記します。『夏』『タイタス・アンドロニカス』の翻訳は小田島雄志訳・白水社から引用しています。)

 

更に、『夏』では、ボトムが余興芝居の中で「ピラマスとシスビー」を演じています。『ロミオとジュリエット』によく似た話で、それが余興芝居で喜劇的に演じられるため、シェイクスピアの自己パロディではないかとも言われる劇中劇です。ピラマスとシスビーの話は、ライサンダーとハーミアの境遇とも重なっています。『夏』では少し省略されていますが、その元になっている伝承では、それぞれの家の仲が悪く結婚に反対された2人が、逃げて一緒になろうと泉のほとりの木の下で相手を待ちながら行き違って死んでしまう悲劇です。

 

ピュラモスとティスベ - Wikipedia

 

6巻でのリチャードとヘンリーの約束は、これのオマージュ?と思わせるような内容ですよね。そして、芝居の中で、ボトムは「こうして私は死んでいく」とピラマスを演じますが、観客から「一度しか死ねないはずなのに、よく息があったものだ」と言われます。『夏』では、芝居がくどくて何度も死ぬと言うのでからかわれている場面ではあるのですが。

 

矢に倒れる前、リチャードは現れたヘンリー/ティレルに「消えろ、亡霊……!!お前は俺が殺した!!」と叫びました。また、刺客たちがティレルに「裏切ったな」「殺せ」と言うのを聞きながら、リチャードは、混迷した意識の中で〈お前は俺の魂を殺し俺はお前を殺した……、お前がお前である限り……、俺たちの間には初めから“死”しかなかったんだ〉と思っています。

 

リチャードはタイテーニアのようには自分を見失っておらず、夢に抗っています。その一方で、悪夢の中で更に死に誘われてもいます。53話の記事で、矢が花の滴の代わりに夢を見させる形になっていると書きましたが、リチャードが矢を受けた部位も微妙です。左胸(ハート)でもなく、右胸というよりは肩、つまり身体的にも致命傷にならず、キューピッドの矢の比喩からも命中したとは言えない箇所です。

 

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ボトムの夢について

ティレルは、当初、相手を知らないまま暗殺を企てましたが、仮面が外れて相手がわかってからはリチャードには手を出さず、54話では逆に刺客たちに反撃しています。53話では「僕の王」と言い、54話では倒れたリチャードに「僕の…、なのに……」と言っています。“自分のものなのに”奪おうとする刺客を許さない、という、タイテーニアとオーベロンの取り替え子の奪い合いのようにも聞こえますし、「僕の…」と、今まで守ってきた人が誰であったかを思い出す過程のようにも聞こえます。刺客たちを殺した後には「僕の……、リチャード」と言い、記憶が戻ったようでもありますが(だからこそ?)、自分にはリチャードを助けるやり方がわからない、と、出会ったケイツビーに助けを求めて姿を消します。

 

『夏』のボトムは記憶を失っている訳ではありませんが、驢馬にさせられたという自分に起きた事態に気づかないまま、入り込んだ妖精の世界にすぐ馴染んでいます。タイテーニアに抱かれて眠り、目が覚めて元の姿に戻った後には、すごい夢だったから「ボトムの夢」という歌にしようと言いながら、うまく言葉にできず「おれは一言も話せない」と、森を去っています。

 

リチャードを託されたケイツビーは、直後に現れたバッキンガムと2人で捜索することになり、その結果……、ということですね。2人の男性が森で好きな人を追うという展開も『夏』っぽいと言うとこじつけすぎでしょうか。これを入れると『夏』の主要登場人物コンプリートになるんです。ヘレナ、ディミートリアスライサンダー。(ヒポリタとハーミアはこの後で書きます。)そして『夏』に絡まないと思っていたケイツビーも絡むことになるので、そうだということにさせてください。

 

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Arthur Rackham, "Midsummernights Dream", Public domain, via Wikimedia Commons

 

亡霊と光について

ティレルが去った後も、リチャードは矢に倒れたまま、死んだヘンリー/亡霊に死に誘われる夢を見ていました。しかもこの夢の場面の前に、リチャードがどこにいるか尋ねるアンに、王弟が「彼は死んだよ」「もし、死んでも悲しくないだろ」と返す場面が入って、死に誘う夢の危険性を煽る展開でした。

 

リチャードの見る悪夢とそこから戻ってくる場面も、『夏』の台詞が本当に素晴らしくアレンジされています。『夏』では、タイテーニアの方が「この森から抜け出すなんて考えないで」「私のそばにいつまでもいらして」とボトムを引き止めようとしたのを逆転させ、下の台詞を使いながら、死んだヘンリーがリチャードを悪夢にとどめようとする形にされています。パックの台詞はこんなに不気味なものだったんですね(あまり印象に残っていませんでした)。一寸引用が長くなってしまいますが……。

 

パック いそいでかたづけなければ、だって……暁の女神オーロラの先ぶれが……近づいてくると、そこここにさまよう幽霊どもが群れをなして墓場に帰ります。四辻や海の底に葬られた浮かばれない亡霊どもも、もうすでに、蛆虫の寝床に戻っていきました。朝日にその恥ずかしい姿を見られないで済むように。彼らはわれとわが身を光から追放しているのです……。

オーベロン だがおれたちは彼らとはまったく別の精霊だ。おれは……大海原の暗緑の潮を……光で、金色に変えていくのを眺めたものだ、この目で。(『夏』)

 

リチャードは、もう過去の自分とは違うと言い、刺さった矢を自分で引き抜いて「この手で、欲しいものを手に入れる」〈この手に光を俺に、王冠を〉と夢から戻ってきます。「光」という台詞がうまく掛かっているというだけでなく、11巻から“欲しいものを奪う”“自分で手に入れる”というリチャードの覚悟が描かれてきたからこそ、この場面で『夏』の引用が生きてくるのでしょう。ここでパックが「かたづけなければ」と言っているのは、タイテーニアとボトムやハーミアたち4人の若者の魔法を夢として片付け、そこから目覚めさせて恋愛のもつれを解消させることです。

 

そして、夢から戻り目覚めたリチャードの傍にいたのはバッキンガムでした。

 

ヘンリー/ティレルとの遭遇を、リチャードは「あいつの」「夢を」見ていたと口にします。リチャードにも夢とも現実ともつかぬ形にされたのも、2つ(以上?)の愛の間で生じた葛藤や混乱が解消されたのも、リチャードとバッキンガムがお互いの気持ちを伝えて恋愛のもつれが解けたのも、とても『夏』っぽい感じがします。

 

更に、後から気づいたことでしたが、54話(〜55話)の、夢に留めようとするヘンリーや弓を引くアンは、4巻15話とも重なる形になっていたんですね。

 

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太陽と王権について

54話は、この『夏』のパートと、エリザベスとエドワード5世たちの陰謀のパートが交互に挟まれる形で緊張感を高めながら進行する形になっていました。リチャードが矢に倒れた時点でエドワード5世の元に“獲物”を仕留めたという情報が入り、彼は、父が見たのは3つの太陽だったが「エドワード5世(ぼく)に見えるのはたった1つの太陽だ」「一切がこの血のもとに跪く」と宣言するように語りました。「太陽」は「光」「王冠」とも掛けられる形なのでしょう。

 

エドワード4世が3つの太陽を見たというのは(『薔薇』2巻にここがアレンジされて出てきますが)『ヘンリー6世』通りで、『ヘンリー6世』ではエドワードが3兄弟が一体になって戦う啓示のように受け取りました。ですが、その兄弟たちが後に反目したり謀略をめぐらせたりするという皮肉……。『薔薇』では、エドワード5世がこう言った直後に、実は弟リチャードが母エリザベスの愛を競って対抗していることが描かれています。エリザベスにとっては、2人とも「ウッドヴィル(わたし)の血」になる訳です。恐い……。

 

また、『タイタス・アンドロニカス』には、タイタスの復讐を継いで皇帝に叛逆するタイタスの息子に、皇帝が「この大空には太陽が2つあるのか」と言う台詞があり、これも掛けられているような気もします。

 

弓を引くアンについて

狩りでアンに同行している王弟リチャードは、自分こそがこの計画を成功させると意気込んで、エリザベスから託された計画通り、アンに、息子の将来の安泰と引き換えにリチャードの殺害に加担するよう唆します。

 

ここからの場面、『タイタス』と『夏』とRⅢとをミックスさせているんじゃないでしょうか。例によって想像が暴走している気もしますが、この重ね方がとんでもなく素晴らしいと言わせてください。

 

息子を引き換えにする:

息子エドワードを下僕に寄こせというところから始まっているのは『夏』の感じで、息子の命を助ける代わりに犠牲を持ちかけられるのは『タイタス』を思わせます(53話記事で書いたタイタスの腕を切り落とす話です)。

 

エリザベスがアンに語りかける:

『薔薇』ではエリザベスが王弟リチャードを通じてアンを唆す象徴的な表現でしょうが、『タイタス』ではタモーラが2人の息子と共に復讐神に変装してタイタスに会い、復讐の計画を教唆してタイタスを嵌めようとします。RⅢには、エリザベスとアンが実際に会って互いの不幸を嘆くシーンがあります。RⅢでは2人は互いを思いやりつつ、アンの方がエリザベスに、リチャードが自分の父や夫を殺したにもかかわらず流されて結婚してしまい、結婚生活も悲惨であることを打ち明けます。

 

アンが弓を持つ:

アンは弓矢を持たされて、リチャードを射つように言われます。52話の記事で、アンが『夏』の女性たちの抑圧を体現しているようだと書きましたが、弓を持ち、「狩りは得意」(55話)と言うアンは、『夏』のヒポリタにも重なって見えます。ヒポリタはよく狩りをしていた設定で、アマゾン族の女王という点でも弓矢を持つイメージになるのでしょう、52話の映像で載せたパリ・オペラ座のバレエでもヒポリタが弓を持っていました。

 

ヒポリタとシーシュースについては、『夏』では唯一問題が起きない結婚を待ち望むカップルと思っていました(メンデルスゾーンの曲なら有名な結婚行進曲の筆頭カップルだし)。ところが、おそらく『夏』の元になった後述の伝承等を反映してヒポリタが結婚に納得していない演出や囚われて連れてこられている形の演出もあったりします(下にリンクした感想記事)。53話記事では目をつぶっていた裏読みの方のやつですね。

 

 

『夏』では直接語られませんが、元になった伝承や文学では、そもそもシーシュースはアマゾン族を征服したか、誘拐したかでヒポリタを連れてきたようなのです。「ヒポリタ、私は剣を持ってあなたの愛を求め、あなたの心をかちえたのも力づくであった」という台詞は、それを指しているとのことです。愛を得た後、ヒポリタを大事にして自制するシーシュースがバッキンガムのようだと53話記事では書きましたが、敵として征服した背景を考慮するなら、これはアンに求婚した時のリチャードのようですよね。

 

『夏』の中では一番まともにすら見えるシーシュースですが、伝承では、強く理性的な君主と、放埓で残酷な支配者との2つのイメージがあるそうです(そんなところもリチャードのようです)。『夏』では前者のシーシュース像が書かれているように見えます。ですが、シーシュースが複数の女性を不実に捨てていたり、父や息子を死に追いやったりという残酷な負の面を、シェイクスピアは匂わせているのでないかという指摘があります(下記も専門の論文ですが)。52話記事で書いたように、シーシュースはアマゾン族のヒポリタの前で母方支配への嫌悪を語ったりもしていました。

 

https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27087&item_no=1&page_id=13&block_id=21

 

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『薔薇』では王弟リチャード/エリザベスが、アンの父や夫をリチャードが殺害したことや愛のない結婚生活に言及し、アンにリチャードの残酷さを訴えます。アンは求婚時のリチャードの冷たい態度や、この間の粛清の噂などを思い出し、そこに王弟/エリザベスが、妻子も犠牲にするだろうと更に囁きます。

 

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アンとエリザベス、ヒポリタとタモーラ

そしてアンは弓を引きました。そこに弓を引くようなポーズを取るエリザベスが重なります。〈これで終わりよーー、リチャード……!!〉〈絶望して、死ね〉は、敢えて誰の台詞かわからない(というよりはアンのものにみえる)独白にされています。「絶望して死ね」はRⅢの有名な台詞ですし、RⅢ既読かどうかにかかわらずアンのアップに重なっているので、これは菅野先生が敢えて誤解を誘ったものでしょう。

 

RⅢでは、アンとエリザベスが互いの不幸を嘆いていました。また、2人ともがかつての敵側と再婚しています。『薔薇』では、エリザベスがそこにつけ込んで、リチャードの暗殺を企てます。ヒポリタもタモーラも、かつての女王が自分たちを征服した側のトップ(大公・皇帝)と結婚していて、その点ではこの2人の立場も似ています。『リチャード2世』から『リチャード3世』までの史劇はそんな結婚ばっかりのように思えますが、それ以外の作品ではそんなにない気がしますし(多分……)、しかも元女王というのはレアじゃないでしょうか。復讐を語るタモーラに対し、ヒポリタは幸せに結婚したかに見える……のに……、上の論文では、伝承の1バージョンで結婚・離別後にヒポリタがシーシュースを殺そうとした説も短く紹介されています。

 

アン、どうするの?! の、この展開の中で、解釈や演出に振り幅のあるヒポリタを、アンに重ねている(←あくまで推測ですが)のって、すごく面白いと思うんです。

 

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