『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

ナショナル・シアター『欲望という名の電車』『やけたトタン屋根の猫』他感想

演劇感想記事については既にシェイクスピアから結構逸脱していますが、今回もシェイクスピア以外です。「NTLive10周年記念企画 Advent Calendar 2023」参加記事を書いたのに伴い、ナショナル・シアター(at Home)の『欲望という名の電車『やけたトタン屋根の猫』  『ライフ・オブ・パイ』の感想を載せました。一言感想より少し長めの分です。タイトルのクリックでそれぞれの箇所に飛べるようにしています。

 

『熱いトタン屋根の猫』を観て『欲望という名の電車』についても改めて考えるところがあったので、『トタン屋根の猫』で相互に言及しています。そこはどうしてもネタバレ的になってしまうのはご了承下さい。

 

欲望という名の電車

ジリアン・アンダーソン主演、ベネディクト・アンドリュース演出、2014年製作。

 

(追記)これはNTLive Japanの公式サイトでも「ヴィヴィアン・リーマーロン・ブランドが出演した映画版(51年)でも知られるテネシー・ウィリアムズの名作に、アメリカ人女優ジリアン・アンダーソンが挑戦。」という書かれ方であらすじが載っていなかったのですが、やはりあらすじもあった方がよいかと思い直して、wikipediaから引用しました。

 

欲望という名の電車 (映画) - Wikipedia

港湾都市ニューオーリンズのうらぶれた下町。Desire(欲望通り行き)と表示された路面電車から、孤独な未亡人ブランチ・デュボワが降り立った。南部の町の傾きかけた名家に生まれたブランチは、家族の看護やその葬儀などで財産を使い果たし、身一つで妹のステラを頼って来たのだ。だが、妹の夫スタンリーは貧しい職工で、家もたった二間のアパートだった。

ブランチの言動は情緒不安定な上にお嬢様気取りで、それがいちいち気に障るスタンリー。ブランチも、粗野で暴力をふるうスタンリーを嫌い、共に家を出ようとステラに訴える。だがステラは、それなりに自分を愛してくれるスタンリーから離れられず、子供も身ごもっていた。

 

前に日本語での舞台を観ているのでなんとかなるかと思ったら、台詞が全然わからず、甘かった~と思いました。英語が聞き取れなかったから余計にそう思うんでしょうし、もちろん敢えての喋り方でしょうが、ブランチが鼻につく喋り方だと印象に残ったことだけはよかったかもしれません(?)。

 

何が凄かったって、ブランチ役のジリアン・アンダーソンの顔が最終場面で本当に老けていたことです。乱れたメイクにはなっていたものの、そのせいではなく演技・表情なのです(照明の効果は少しあったかもしれません)。あれは表情で皺とかが出せるんでしょうか、直後のカーテンコールでは綺麗な顔に戻っていました。

 

現代化演出だったので、舞台についての最初の印象は“あれ? アパートきれいじゃん”でした。ブランチの服でやってきても問題ないきれいさです。一方、壁などがないことや、全てが見通せる装置については “きれいだけど狭!”とは思えて閉塞感は感じましたし、全てが見通せるのはプライバシーがない感じで、そちらの方に重点を移したのかもしれません。こんなに狭くて、カーテンの仕切りしかない妹夫婦の家に姉が住んだら、元々の関係が悪くなくても無理が出そうです。

 

画像の下からストーリーのネタバレです。

 

Unsplash Aleksandar Živković

 

ブランチは後半ではもうかなりおかしいという作りに思え、スタンリーによるレイプを実際のものとして描いていたのか、(演出的に)被害妄想かもしれない可能性を残していたのか迷います。前半のブランチの服は、上品ぶる割にはセクシーで若作りだな程度の印象ですが、誕生日に着た赤いドレスは認知のおかしさを感じせます。喋り方も不安定でおかしいという演じ方だった気がします。これはどう考えるのがよかったんでしょうか。

 

日本語上演を観た際には印象に残っておらず、今回逆に印象的だったのは、亡くなった夫のことがいかに彼女の心的外傷になっていたかということです。これは演出の違いだったのか、私側の受け止め方の違いなのかはわかりません。(それに何しろ私は映画で観ていた『ライフ・オブ・パイ』のストーリーを忘れていたくらい記憶力は怪しいです。)この後で『やけたトタン屋根の猫』を観て余計にそう思ったのですが、今回、ブランチが男性を誘惑するのは彼女自身の性的欲望や男性への依存というより、本当だったら夫に愛されていた(くらい魅力があるはずの)自分の確認や、擬似的に夫を取り戻すことではないかという気もしました。メッセンジャーの男の子が、台詞に出てくるブランチの夫を思わせるような雰囲気です。あるいは、夫の恋人に対する復讐のような。男は本当なら私に墜ちるはず、という。

 

現代化されたことで一番印象が変わってしまったのは私にとっては実はラストでした。多分原作では、精神科に行くこと=少なくとも社会的終焉というニュアンスだと想像しますが(ウィリアムズの姉はロボトミー手術まで受けたそうですし)、あの医師とブランチの態度なら、依存症状自体には苦労しても精神科入院でいい展開になるんじゃないかとさえ思えてしまいます。もちろん、原作の暗さは十分残っており最後は泣きながら観たのに、どこかで“現代に近いなら精神科でブランチなんとかやっていけそう、社会復帰も余裕では”とか考えてしまうのです。既に古典と言える作品を、教科書的にでなく今日的なものとして問題提起する意図があったのだろうと思いますが、逆に時代性を意識することになった気がします。それは次の『やけたトタン屋根の猫』も同様でした。

 

『やけたトタン屋根の猫』

シエナ・ミラー、ジャック・オコンネル主演、同じベネディクト・アンドリュース演出、2018年製作。こちらも現代化演出でした。

 

新国立劇場の作品紹介があまりネタバレ的でなくていい感じがしました。こういう話です。

やけたトタン屋根の上の猫|演劇|新国立劇場

舞台はアメリカ南部の大富豪の家。一代で大農場を築き上げた一家の主(ビッグ・ダディ)は、体調を崩して受けた健康診断の結果、癌に侵され余命いくばくもないと判明するが、本人には健康体と知らされていた。
この家の次男ブリックは、愛する友人の死をきっかけに酒びたりの生活を送り、その妻マギーは、ある事件を境に失いかけている夫の愛を取り戻そうと必死だった。また、長男グーパーとその妻メイの夫妻は、父の病状を知って、遺産相続を有利に運ぼうとしていた。

 

新潮文庫の紹介はネタバレ的なんです。でもその話をしたいので、この下からそれを引用します。

 

Unsplash E. Vitka

 

「BOOK」データベース
舞台はアメリカ南部の大富豪の家。一家の主は、癌で余命いくばくもない。この家の次男ブリックの妻マギーは、同性愛の愛人を失ってから酒びたりの生活を送る夫の愛を取り戻そうと必死だった。

 

ということで、『欲望という名の電車』ではブランチに主に焦点が当たっており、同性愛関係を指摘されて自殺した彼女の夫については台詞で回想的に語られるだけですが、『猫』では同性愛指向の夫ブリックと肉体関係も含め彼の愛を得たいマギーの夫婦関係が主軸になっています。ブランチに該当するのがマーガレットとも言えますし、「友人」スキッパーが自殺した(しかもその原因はほぼブリックにある)ブリックとも言えそうです。ただ、ブリックは他者に対してだけでなく自分自身に対しても同性愛指向があることを否認し、スキッパーのことはあくまで友人としたがっています。

 

マギーもブランチに似て、感情移入できると同時に本当に苛々させられる人物でした。叶わぬ恋情と情欲に身を焦がして傷ついて、それを周囲にぶつけているように思いました。(ついでながらアクセントも含めた話し方にやはり苛々させられました。私が英語を聞き取れない八つ当たりでしょうが、戯曲自体にも「きざな話し方」とあります。ただ、「きざ」というよりは甘ったるく媚びた感じの話し方に聞こえました。)更にマギーは、スキッパーがゲイでないことがわかれば、夫と自分の関係も元に戻ると考えて、スキッパーに自分と肉体関係をもたないかと誘っていたりするのです。おそらくマギーは、スキッパーがブリックに特に何の思いも抱いていなければ、彼と寝る提案などしないだろうと思うのです。ブランチが多数の男性と関係をもつのが、なんだかマギーと似た行動原理のように思えてしまいます。

 

ブランチ、ブリック、マギー、この3人の中ではマギーが一番ポジティブで前向き、いい意味で貪欲に思えました。これは演出によるかもしれませんが、今作のマギーはよかったです。

 

同性愛の禁忌や否定がこれだけ人を、また人間関係を不毛なあり方に突き落とすものかと思い、これも現代化演出によって逆に時代性が感じられました。現在でも同性愛差別や公にしがたい空気は依然としてあり、「時代性」などと言っては脳天気すぎるかもしれませんが、何でこんな馬鹿馬鹿しいルールで暮らしていたのかと思ってしまうのです。また、マギーとブルックが純粋にヘテロカップルだとしても不妊を云々するのも今だとかなりあり得なくて、“いや、そんな変な家族の言うことは真に受けて傷ついちゃダメだよ、もし遺産狙いなら適当にあしらっておきなよ”と、一寸引いて見てしまうほどです。マギー自身に子どもを持ちたい欲求は強いのでしょうが、隔世の感はあります。

 

こちらも翻訳本を片手に観て、その後書きで訳者の小田島雄志先生がブリック達の同性愛文脈に全く気づかなかったと書かれていて非常に驚いたのですが(尤も、それは修正が施された映画を見た時の話らしいので仕方ないかもしれません)、そう言う私自身も、ビッグ・ダディ(ブリックの父)の同性愛/バイセクシュアル文脈や、更にはプランテーションのかつての経営者ストローとオチェロの関係には全く気づかないままでした。下記論文で指摘されているのを読めば、その通りだ……と思えるのに、なかなか見えないことはあるものですね。

 

貴志 雅之「クイア・カップルの亡霊と遺産─ テネシー・ウィリアムズのCat on a Hot Tin Roof ─」『立命館国際研究』

https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/21-3_01KishiMasayuki.pdf

 

ライフ・オブ・パイ

これはパペットと演出が素晴らしく、“まさに舞台の魅力”と思える具体化と抽象化と身体表現の塩梅の妙を感じます。ファンタジックな世界観と現在との物語の交差も舞台ならでは。本当によくできた舞台作品だと思いました。

 

あの、間抜けな話で恥ずかしいのですが、私は映画版を観ていながら、すっかりストーリーを忘れていて“あ、虎と漂流する話”と思って観に行きました。この話を忘れるって、と自分でも呆れます。後半、3人の登場人物が出てきてしばらくしてどういう話だったかを思い出しました。舞台の方が答えを明確に言っていて映画の方はもう少し謎かけ的だったようにも思いますが、それも記憶違いかもしれません。

 

映画ではすっかり成人になったパイも出てきて、その役のイルファーン・カーンが賢者のようで印象的だったり、海上場面の映像は頭にあったりしたのですが、私も動物が出てくる話の方が好きだったということですね……。観終わってから、映画の方は人喰い島もCGなどを使って具体的に描写していたことも思い出しました。