『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

菅野文先生の『薔薇王の葬列』についてシェイクスピア原案との関係を中心にひたすら語ります

王妃と薔薇の騎士 1巻 Ep:2 マーガレットとサフォークについて

(※ネタバレになっていますので、ご了解の上お進みください。)

マーガレットとサフォークについて

Ep:1までの『ヘンリー6世』(以下、HⅥ)第1部では、サフォークはともかくマーガレットはすれた所のない姫に思えるものの、HⅥ第2部のEp:2の該当箇所でのマーガレットとサフォークはやりとりは、ヘンリーを蚊帳の外に置き愛し合う2人が邪に権力奪取を企てるものに見えます。

 

それが『王妃と薔薇の騎士』(以下、『騎士』)では、優しく無力な王ヘンリーを守って王権を取り戻すために戦う王妃と、両者に忠節と愛を尽くす臣下に変換されます。もちろん不穏な部分がカットされたり、サフォークの台詞をマーガレットが語ったりするせいですが、カットも含めてとても演出的な気がします。やはり菅野先生の解釈と演出はうまい、楽しいと思えます。

 

マーガレット サフォーク卿、これがイングランド宮廷の慣わしなのですか、(中略)ヘンリー王は、いつまでもあの不機嫌なグロスターにああしろこうしろと言われる生徒なのですか? 私は王妃といっても肩書きと称号だけ、一公爵の臣下でいなくてはいけないの? いいこと、ポール、トゥールの町であなたは私の愛のために馬上槍試合で闘った、(中略)あのとき私は思ったのよ、ヘンリー王もあなたのような方だろうと、勇気があって、洗練された宮廷人で、姿がよくて。でもあの人の心は神様のことでいっぱい、(中略)いっそ枢機卿会議があの人を法王に選び、ローマへ連れていって法王の冠をかぶせればいい。(中略) 

サフォーク ご辛抱ください、お妃様、あなたをイングランドへお連れしたのはこの私です。イングランドでご満足いただけるよう動くのも私です。

(中略)

サフォーク (前略)そうやって一人ずつ邪魔な根を残らず抜いてゆき、最後にはあなたご自身が国家の幸せな舵を取るのです。(HⅥ第2部)

 

HⅥだと、ヘンリーに嫌気が差したマーガレットがサフォークに惹かれ、不満を訴えるように思える箇所が、『騎士』では「ヘンリー王も……貴方のような人だといいけれど…」と、マーガレットの抑えた想いの吐露となります。彼女のために策謀を示唆するHⅥサフォークの台詞は、「必ずお守りいたします、この命にかえても」になっている気がします。『騎士』サフォークがヘンリーを敬う台詞が入ることもあり、騎士道ロマンス的な雰囲気になるのです。これはサフォークが計算高く振舞うHⅥでは感じられないものです

 

(HⅥの2人は『薔薇』本編のリチャードとバッキンガムの王位簒奪に近い感じですね。ついでに言えば、狡猾に動いているかと思ったら後半で純粋な恋愛感情を迸らせる点でもHⅥサフォークは『薔薇』バッキンガムに似ているかも。16巻でHⅥのマーガレットとサフォークの場面が使われたことも改めてなるほどと思いました。『騎士』はきっと違う形になるのだろうと思うとそれも楽しみです。)

 

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薔薇の騎士はマーガレット自身のことかもしれませんが……

前記事をアップしてから、「薔薇の騎士」はマーガレット自身のことかも、と考え直すところはありました。マーガレットがジャンヌのような戦士を範にしていることからすれば、“王妃にしてランカスターの薔薇を守る騎士”とも取れますよね。「王妃と薔薇の騎士」のタイトルから思わずシュトラウスの『薔薇の騎士』を連想してしまったり、『ロミオとジュリエット』的な「と」だと当然のように考えていたものの、『息子と恋人』の方の「と」かもしれません。前回記事で「マーガレットが騎士になる」という説明まで引用しながらそこに思い至らなかったんですが、そうだとすればシュトラウスは全然関係ないし、サフォークが騎士って訳でもない……。

 

なのですが、マーガレットを守り支えようとするあり方や、ヘンリーを主君と遇する主従感で、やはりサフォークは騎士的に見えるのです。

 

Ep:2の序盤を読んでいる時は“楽劇『トリスタンとイゾルデ』みたいだなー”と思いました。多分『薔薇の騎士』からのオペラ連想で、船旅なのも連想トリガーだったりはしました。毒のつもりで媚薬を飲んでしまうなんてことはありませんが、和解の結婚に向けて主君の元に姫を送り届ける騎士が、姫と禁断の恋に落ちる……。騎士道ロマンスを感じるんですよね。『トリスタンとイゾルデ』はオマージュの推測とかではなく勝手な連想ながら、騎士道ロマンス的雰囲気は菅野先生が狙っている気もします。

 

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マーガレットとヘンリーについて

ヘンリーがサフォークのような人ならいいと考えたマーガレットの思いに反して、彼女を迎えたのは、10歳以上年上なのにあどけない少年のようなヘンリーでした。HⅥヘンリーは平和主義者ではあっても、王の権限や礼節を盾に宮中の諍いを仲裁しており、『騎士』ではそれ以上に子どもっぽい描かれ方だと思います。成年になっても摂政に判断を委ねるヘンリーにマーガレットは驚きながらも、彼が「平和を望んでる!」「この宮廷の平和も……」と語ったことを、「貴方は、まるで“神の使い”ね……」と同情しています。落胆はしつつも、彼女はヘンリーを受け入れ慮ってもいます。『薔薇』本編のマーガレットは、HⅥ通りヘンリーの態度に不満をあらわにしていましたが(3話の「ローマに行ってその頭に法王の冠を載せてもらったらいい」ってここからかー、とわかりました)、Ep:2のニュアンスは違っています。

 

しかもヘンリーの方は、マーガレットの手を取って「今日から僕たちは、友達だ……!」ですよ! マーガレットには「??」でしたが、本編3話と76話を堪能した読者としては“うわーん”となります。

 

baraoushakes.hatenablog.com

 

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『薔薇王』本編(5巻19話)で、ヘンリーと初めて食事をした時、エドワードとアンよりも会話があったとマーガレットが言っていたことが、本当にそうだなと思えます。2人ともが変わってしまったでしょうね……。

 

マーガレットがそう語るのは19話ですが、その話に触れているのが22話の感想なので。

baraoushakes.hatenablog.com

 

宮廷の勢力図について

そんなヘンリーに代わって、摂政として実権を握っているのが叔父グロスター公です。ヘンリーの大叔父のウィンチェスター枢機卿グロスター公が覇権を争って険悪なのも、他貴族達がそれぞれ虎視淡々と権勢を窺っている感じなのも、かなりHⅥ通りのように思います。『騎士』ではグロスターが押しの強い悪役的になっていると思いますが、どの台詞をカットしてどう言わせるかで印象を変えている気がします。

 

サフォークが騎士的なキャラになっていると、流れとしてはHⅥ通りでもかなり印象が違ってくるものですね。HⅥでは、婚約済みのアルマニャック伯爵息女との約束を破棄したばかりでなく、マーガレットとの結婚のためにサフォークがトンデモ協定を結んできて、それが婚儀の場で明らかになり、グロスターが驚き憤る流れです。HⅥグロスターは、兄のヘンリー5世達が命をかけて守ったフランス領土をおかしな形で失ってはならないと切々と訴えてもいます。しかもHⅥサフォークはマーガレットを自分のものにするために画策しているので、普通に読むとグロスターの言い分が尤もに思えます。ヨーク公とウォリック伯もグロスターに同調しています。

 

『騎士』だと、一任されたサフォークが正式にまとめた協定と結婚に、グロスターが不当に難癖をつけているように見えますよね。

 

とはいえ、HⅥでも、グロスターの訴えは枢機卿、バッキンガム公、(まだ1巻では出てこない)サマセット公に批判されます。国王の決定にグロスターが口を出し過ぎで、それ以外も専横がすぎるというのです。彼の思い通りにならず、権勢が損なわれるのが気に食わないのだろうと。この辺は『騎士』枢機卿の台詞になっています。HⅥの別箇所では、グロスターが自身の奢侈のために国費を使っていることへの糾弾もあります。HⅥヘンリーが結婚協定を難なく受け入れるのは、マーガレットに夢中でサフォークに丸め込まれたからにも思えるんですが、必ずしもトンデモ協定ではなく、戦争継続派の臣下だけが協定に怒ったと見ることもできるな、と『騎士』を読んで思いました。

 

HⅥで独白や心情を語る箇所では、グロスターは良心的に国家を憂いている一方、サフォークは腹黒いことを語ってはいるのですが、現実的にどちらがイングランドのためになりヘンリーのためになるかの視点の反転は可能に思います。台詞のカットと演出だけで『騎士』グロスターのようにできるかもしれません。それが可能になるHⅥの素晴らしさと、菅野演出の面白さを感じます。

 

国の舵を握ることについて

『騎士』マーガレットは、宮廷で権力闘争が常態化し、平和を願う王ヘンリーは口を出せないまま蔑ろにされていることを知り、それを正すためにサフォークが彼女を王妃にしようとしたと悟ります。「貴方は、私にこの国の舵を握らせるつもりなのね」。HⅥのサフォークの台詞「最後にはあなたご自身が国家の幸せな舵を取るのです」のままですが、ニュアンスは逆とも言えます。HⅥの方は、権力を手中にしマーガレットのほしいままにさせる含意、『騎士』の方は王位を正統なものに戻す含意が感じられます。『騎士』で言われる舵取りは、仮に邪魔者がいなくなっても困難な仕事をさせることに思えます。Ep:1から、結婚してイングランドの宮廷に行くことは「戦い」として描かれていました。HⅥサフォークが「マーガレットは王妃になり、王を支配するだろう、だが俺は、王妃も王も支配してやる。」と彼が頂点に立つ欲を示すのに対し、『騎士』のサフォークは王と王妃を支えようとし、マーガレットとサフォークは彼らが求める理念のために共闘する同士にもなっています。

 

そして「この国の舵を握」るという台詞がマーガレット自身のものにされ、HⅥ以上にマーガレットが主体的に動く形になっています(少なくともEp:3、4では)。『薔薇』本編では、リチャードとバッキンガムの原案の台詞を入れ替え、王位簒奪をバッキンガムが主導するような逆転がありましたが、『騎士』ではマーガレットとサフォークの主導関係が入れ替わるように思えます。

 

扇を落としてエレノアに拾うように命じ、頬を叩くエピソードは、HⅥでも、マーガレットがグロスター夫妻に喧嘩を売り罠に嵌めるための第一歩です。ですが、HⅥで「私の癇に障ることにかけては、その貴族ぜんぶを合わせても、あの高慢ちきな女、摂政の妻の半分にも及ばない。(中略)あれではハンフリー公爵〔=グロスター〕の妻というより皇后だ。(中略)死んでも一泡吹かせてやりたい。」とマーガレットが語った後では、私怨を晴らす感情的な行為にも見えます。『騎士』ではマーガレットがこう語るのでなく皇后のように振舞うエレノアが描写され、〈王権を奪い返す王(おとこ)ができぬなら王妃(おんな)がやればいい〉とマーガレットが考えた後にこのシーンが来ています。エレノアへの仕打ちが、一層戦略的で宣戦布告的なものに見えます。

 

更に、〈爪を隠して微笑めば女の道はひらかれる、“優雅”と“親切”こそが、私達の武器なのだから〉と考えるエリノアと、〈微笑みも親切(やさしさ)も必要はない〉〈私はこの国で一番頂上に立つ女〉と決意したマーガレットが対比されます。“女性ならでは”のやり方でなく、文字通りの実力行使。前記事でもリンクした菅野先生と萩尾望都先生の対談では、菅野先生が「今作ではフェミニズム的なことにも触れられたらいいなと思っています」と仰っていて、この箇所にもそれを感じます。いかにも女同士の諍いに見えるシーンをずらしているようにも思うのです。

 

シュトラウスの『薔薇の騎士』とは関係ないかもとか言いながら、今回は『トリスタンとイゾルデ』の動画をリンクしようと思っていました。そうしたら船だとわかる装置のものがほとんど見当たらず、抽象的装置や現代化したものが多くて意外でした。ということで動画リンクでありながら、ウォーターハウスの絵のジャケットだけが映っているものです。背景が船なのわかります?


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(※HⅥは松岡和子訳・ちくま文庫版から引用しました。)